ピョルチェバン校洞サンバプ(별채반 교동쌈밥) - エリア情報 - 韓国旅行情報

ピョルチェバン校洞サンバプ(별채반 교동쌈밥)

ピョルチェバン校洞サンバプ(별채반 교동쌈밥)

1.0 Km    0     2023-07-04

경상북도 경주시 첨성로 77

ピョルチェバン校洞サンバプは、慶尚北道慶州市皇南洞に位置している。地上波テレビ番組に何度も登場するほど有名なところ。代表メニューは、野菜や肉、魚などをおかずと一緒に包んで食べる「サンバプ」で、豚肉プルゴギサンバプ、鴨プルゴギサンバプなど多様な種類のサンバプがある。他にも六部村ユッケジャン、メタカラコウビビンバも味わえる。サンバプの特性上、野菜がたくさん入っているためヴィーガンにも良い選択肢となる。中には団体席もあり、予約も受け付ける。近くに瞻星台、大陵苑が位置しているので、観光スポットを回るときも移動しやすい。

慶州 奈勿王陵(경주 내물왕릉)

慶州 奈勿王陵(경주 내물왕릉)

1.1 Km    16983     2022-08-29

キョンサンブク道キョンジュ市キョ洞

「慶州奈勿王陵(キョンジュネムルワンヌン)」は慶州郷校の北側に位置する丘の上にある大型の丸い土墳です。墓の底面や周りに自然石の稜がありますが、これは武烈王陵の場合と同じでその中に別の護石が設置されていると推測されています。三国史記には奈勿王の葬地に関する記録はありませんが、三国遺事に瞻星台の南西にあると記録されており現在の位置と一致します。また初期の王陵としては比較的綺麗な形で現存しています。
保護区域1万2,818平方メートル、底径22メートル、高さ5.3メートル

慶州 鶏林(경주 계림)

慶州 鶏林(경주 계림)

1.2 Km    15938     2023-01-18

キョンサンブク道キョンジュ市キョ洞

瞻星台と月城の間に位置しており、史跡に指定されています。慶州金氏の始祖、閼智が誕生したという伝説がある由緒ある場所で、このような話が残されています。新羅脱解王の時に、瓠公がこの林の中で鶏の鳴き声を耳にしたので、声が聞こえる方に近寄ってみると、木の枝に金の装飾がほどこされた櫃が引っかかって、光を放っていました。このことを王に話すと、王は自ら林へ行き櫃を下ろし、ふたを開けると中から男の子が出てきたので、この子の姓を金、名前を閼智とつけ、もともと始林、鳩林と呼ばれていたこの林のことを「鶏林(キェリム)」と呼ぶようになったと伝えられています。鶏林は、新羅の国号としても使われました。丸く広がっている林には、ケヤキの木などの古木が鬱蒼と茂っており、北から西にかけては小川が流れています。王は閼智を皇太子に任命しましたが、後に朴氏王族である婆娑王に王位が継承されたため、王位に就くことはできませんでした。後の時代、奈勿王の時より新羅金氏が王族となりました。境内にある碑は1803年に建てられたもので、金閼智誕生についての記録が刻まれています。大陵苑-鶏林-半月城と続く散策路の周辺には春になると黄色いアブラナが咲き、趣を一層深めてくれます。

慶州郷校(경주향교)

慶州郷校(경주향교)

1.3 Km    17419     2022-09-19

慶尚北道 慶州市 校村アンキル 27-8

慶州郷校(キョンジュヒャンギョ)は、創建年未詳となっていますが、高麗時代に儒学の先賢・賢儒の位牌を祀り、地元の中等教育や地方に住む人々の教化を図る目的で創建されました。新羅時代の神文王(シンムナン)2(682)年に、教育と儀礼を司る礼部(イェブ)に属する教育機関・国学が設置された場所と言われています。
その後朝鮮時代に入り、慶州郷校は、1492(成宗23)年慶州を治めていた官庁の長・慶州府尹(キョンジュブユン)の崔応賢(チェ・ウンヒョン)が重修を行いました。
しかし、壬辰倭乱(日本で言う「文禄・慶長の役」)の際、位牌を安置する大成殿(テソンジョン)が焼失、中にあった位牌を道徳山(トドクサン)斗徳庵(トゥドガム)に一旦移し、1600(宣祖33)年になり当時の慶州府尹・李時発(イ・シバル)が大成殿と典祀庁(チョンサチョン)を重建し、位牌を元に戻したといいます。
1614(光海君6)年には府尹の李安訥(イ・アンヌル)が明倫堂(ミョンニュンダン)の重修を行い、また同時に建物の東西に対称になるよう両廡を重建、続いて1668(顕宗9)年には補修も行いました。
慶州郷校は慶尚北道(キョンサンプクド)有形文化財第191号に指定されており、現存する建物としては、大成殿・明倫堂・東廡・西廡・典祀庁・内神門(ネシンムン)などがあります。
正面3間、側面3間の切妻屋根となっている大成殿には儒教の五聖、宋朝二賢、韓国の十八賢の位牌が祀られています。
この慶州郷校は朝鮮時代には国から田畑や奴婢・典籍などを支給され、教官が教生を教える教育機関としてその役目を果たしていましたが、現在では教育的機能はなくなっています。
慶州郷校では春と秋に孔子や儒教の先哲を祀る釈奠を行い、また月初めの1日と月の真ん中の15日に香を焚いていますが、郷校の責任者に当たる典校1人と掌議数人がこれを行っています。

瑶石宮(요석궁)

瑶石宮(요석궁)

1.3 Km    10410     2022-07-04

キョンサンブク道キョンジュ市キョチョンアンギル19-4

新羅・武烈王の娘・瑤石姫が暮らしていた宮廷跡に、朝鮮時代、慶州の「崔富者」が門を構えたのが、瑶石宮(ヨソックン)です。また、日帝強占期に国を奪われ、鬱憤を慰めあった多くの独立運動家たちが隠れ住んだ場所でもあります。「崔富者」家門の兄弟は、独立運動の先頭に立ち、独立のために資金を援助し、解放後は全ての財産を社会へ還元した事で全国民から尊敬されました。当時、「崔富者」宅を訪れた客人たちが「崔富者」家の伝統家庭料理の素晴らしさを伝え広め、現在も世界各国の大使や歴代大統領、各界の著名人がこの名家に伝わる伝統の家庭料理を堪能するため、瑶石宮を訪れます。

慶州 石氷庫(경주 석빙고)

慶州 石氷庫(경주 석빙고)

1.4 Km    16010     2023-03-21

キョンサンブク道キョンジュ市イヌァン洞

「石氷庫(ソクピンゴ)」は石で作られた天然の冷蔵庫で、宝物に指定されています。505年に氷を保存したという記録があり、新羅時代のものであると考えられてきましたが、現在の石氷庫は朝鮮時代の1738年に作られたことが分かりました。石氷庫は入口が月城の中にあり、長さ12.27メートル、幅5.76メートル、高さ5.21メートルで、すべて加工された石材でできています。天井はアーチ型で、長方形の石材の3ヶ所に通風のための穴が開けられており、床の中央には排水路があります。

慶州 校村村(경주 교촌마을)

慶州 校村村(경주 교촌마을)

1.4 Km    33947     2021-05-25

慶尚北道 慶州市 校村キル 39-2

国家民俗文化財第27号・慶州崔富者宅(キョンジュチェプジャテク)や国家無形文化財第86-3号慶州校洞法酒(ポプチュ)がある校洞(キョドン)村(キョドンマウル)は、12代もの間、万石取りの大地主としての財産を守り、また学問にも力を入れ9代にわたり科挙の予備試験に当たる小科のひとつ覆試(ポクシ)に合格した人に与えられる称号・進士(チンサ)を輩出した慶州(キョンジュ)崔氏一門の魂が宿る場所です。
慶州崔氏一門で家訓のように継承されている原則「官職は進士以上するな、財産は万石以上蓄えるな、過客を手厚くもてなせ、凶作の年には他人の田畑を買ってはならない、崔氏一門の嫁は嫁入り後3年間木綿の服を着なければならない、 四方100里(注:韓国の1里は約400メートル)内で飢え死にする人がないようにせよ」は、真のノブレス・オブリージュがいかなるものであるかと考えさせる内容となっています。
この村は新羅時代の高僧・元暁(ウォニョ)大師との間に薛聡(ソル・チョン=新羅時代を代表する学者)を生んだ新羅29代の王・太宗武烈王(テジョンムヨルワン)の娘・瑤石(ヨソク)公主が暮らした瑤石宮(ヨソックン)があったところだといわれています。近くに新羅の始祖である朴赫居世(パク・ヒョッコセ)の誕生の逸話が残る鶏林(ケリム)や奈勿王陵(ネムルワンヌン)、慶州郷校(キョンジュヒャンギョ)、 新羅の名将・金庾信(キム・ユシン)将軍が暮らした財買井(チェメジョン)があります。

月精橋(월정교)

1.4 Km    1053     2023-03-21

キョンサンブク道キョンジュ市キョドン274

月精橋(ウォルジョンギョ)は、慶尚北道(キョンサンプクド)慶州市(キョンジュシ)校洞(キョドン)にある統一新羅時代に架けられた橋です。この橋は朝鮮時代に失われてしまいましたが、2018年4月、韓国国内最大級の木造橋として復元されました。
『三国史記』によれば、この月精橋は、統一新羅時代の760年に造られたと記録されており、慶州月城(ウォルソン)と南山(ナムサン)を結ぶ橋でした。1984年11月26日から1986年9月8日まで、2回にわたって復元工事のための情報収集及び発掘調査を行い、その結果、建設当時の月精橋が木造の橋であったことが初めて判明しました。この調査をもとに復元のための設計図を引き、出来上がった設計図を基に2008年から2013年まで復元工事を実施、全長66.15メートル、幅13メートル、高さ6メートルの橋が復元されました。2016年4月からは橋の両端の2つの門楼の建設が始まり、2018年4月に完成しました。門楼の2階には出土した遺物や橋の建築の歴史を紹介するデジタル展示館があり、月精橋の歴史や復元の過程の映像を見ることができます。慶州市の新羅王京8大核心遺跡復元整備事業のなかで初めて完了した月精橋復元事業は、今後行われる皇龍寺(ファンニョンサ)、新羅王宮、チョクセム地区、新羅坊里制などの復元整備工事の参考になるものとみられます。

慶州 月城(半月城)(경주 월성(반월성))

慶州 月城(半月城)(경주 월성(반월성))

1.5 Km    17377     2021-06-25

慶尚北道 慶州市 仁旺洞

新羅の宮(金城)があった城で、丘の上に土と石を混ぜて半月状に積んで造られた城です。半月状に造られたことから半月城(パンウォルソン)または月城(ウォルソン)と呼ばれています。
韓国の有名な歴史書である『三国遺事』によると、新羅の4代大王・昔脱解は、この地が慶州で一番の明堂(王が臣下の謁見を受ける宮殿)であることを知り、ある貴族からこの地を奪い半月城を築いたといわれています。このことがきっかけで、新羅の第2代大王だった南解王に気に入られ、第4代大王の地位を手に入れたそうです。その後、新羅最後の王である第56代敬順王までの約900年間、この地は新羅を統治した重要な役割を果たしました。今では華麗で荘厳だった宮廷の姿はなく、空き地と化していますが、新羅時代には数多くの建築物が存在していたと伝えられています。

慶州東宮と月池(경주 동궁과 월지)

1.6 Km    47992     2024-02-28

キョンサンブク道キョンジュ市ウォンファロ102

慶州(キョンジュ)東宮と月池は、新羅時代の王宮の別宮があった場所です。他の付属建物と一緒に王子が暮らす東宮として使用され、国の慶事があるときや貴賓をもてなす際に、ここで宴会が開かれたそうです。新羅の敬順王が甄萱に攻め込まれた後、931年に高麗の太祖・王建を招いて差し迫った状況を訴え出、宴会を催した場所でもあります。新羅が三国を統一した後、文武王14年(674年)に大きな池が掘られ、池の真ん中に3つの島と池の北東に12の峰の山が造られ、ここに美しい花や木々を植えて珍しい鳥や動物を飼ったと伝えられています。高麗時代の『三国史記』には臨海殿についての記録だけがあり、池については何の記録もありません。その後、新羅が滅びて高麗時代と朝鮮時代を経てここが廃墟になると、詩人墨客が池を見て「華やかだった王宮は跡形もなくなり、雁と鴨だけが飛び交う」と寂しい詩を詠んだことから、ここが「雁鴨池」と呼ばれるようになったと伝えられています。その後、1980年代に「月池」という文字が刻まれた土器の破片が発掘され、ここが元々は「月の映る池」という意味から「月池」と呼ばれていた事実が確認されたため、「雁鴨池」から「東宮と月池」に名称が変わりました。