1.2Km 2024-03-11
ソウル特別市チュン区ミョンドン8ギル8-10
+82-2-776-3267
百済(ペクチェ)サムゲタンは、明洞(ミョンドン)通りに位置しているサムゲタン専門店です。1971年代に創業し2代目が運営している飲食店で、韓国以外にも複数国家のテレビで紹介されました。サムゲタンの他にも鶏肉の炒め煮、ローストチキンなどの鶏肉料理とアワビ粥などを扱っています。
1.2Km 2022-08-30
ソウル特別市チョンノ区ブクチョンロ5ナギル90
「北村生活史博物館」ではソウル市の北村で収集された、昔の韓国の生活品が展示されています。2003年にオープンしたこの博物館は、何百・何十年前からずっと使われてきながらも、産業化によりその姿が見られなくなったものが置かれています。
例えば、「ひき臼」(豆や緑豆をひく道具)や「ジャンドク」(醤油やコチュジャンなどを入れる甕)、「器」、「尿瓶」(部屋の中に置かれた、用を足すための器)などです。これら生活品は家に見立てた展示館の中に並べられており、展示されているものはすべて実際に手にとって触ったり、体験したりすることができます。
三清洞から苑西洞までの地域を合わせた北村は、昔から韓国伝統家屋の保存地域でした。韓国伝統家屋の特徴である納屋や物置がある家の構造が、昔の生活品が今にまでたくさん残った理由と考えられます。現在、約20,000点の生活品が収集されており、博物館には約300~400点が展示されています。
1.2Km 2024-03-12
ソウル特別市チョンノ区チャハムンロ5ギル5
土俗村参鶏湯(トソクチョンサムゲタン)は景福宮(キョンボックン)の近くにあるサムゲタンのお店です。古い韓屋を数棟改造した本館と別館があり、古風な雰囲気を醸し出しています。サムゲタンは、下ごしらえしておいた若鶏のお腹に高麗人参やナツメ、もち米、ナッツを詰めて煮込んだ韓国の伝統的な滋養食です。スープがトロッとしたサムゲタンと一緒に出される高麗人参酒は食欲を高め、カクトゥギや白菜キムチがおかずとして基本的に付いてきます。
1.2Km 2024-09-04
ソウル特別市チョンノ区サジクロ161
+82-2-3700-3900~1
「景福宮夜間観覧」が開催されます。更けてゆく夜空の下、由緒ある韓国の文化遺産・景福宮(キョンボックン)を巡ってみましょう。
景福宮夜間観覧は1日当たり3,300人限定となっており、事前にオンライン予約が必要です。ただし外国人を対象に1日300人を上限として当日券(先着順)の販売が行われますので、当日券購入の際はパスポートや外国人登録証(韓国に長期滞在の外国人の方の場合)など、身分証を提示してください(枚数限定のため早めに売り切れとなる場合があります)。また例年同様、韓服着用者は無料で入場可能です。
・運営時間:19:00~21:30(最終入場20:30)
・夜間観覧のない日:月曜日、火曜日、9月19日、10月9日
・外国人限定当日販売:1日300枚(先着順)1人2枚まで購入可能
※韓服着用者は韓服無料観覧ガイドラインに従って着用しているか確認して入場
韓服無料観覧ガイドライン
https://royal.cha.go.kr/ROYAL/contents/R705000000.do
1.2Km 2021-08-27
ソウル特別市 鐘路区 サムチョンロ102-2
+82-2-723-8250
ワッフルがおいしいカフェです。ソウル特別市のジョンノ区に位置した韓食です。代表的なメニューはワッフルです。
1.2Km 2024-09-12
ソウル特別市 鐘路区 社稷路12キル8
[中小ベンチャー企業部2018年「百年店」に選定]
「新安村(シナンチョン)」は1986年に開業しました。店舗は雰囲気のある韓屋構造になっており、ホンオサムハプ(ガンギエイの刺身・豚肉・キムチ包み)、ホンオテンジャンクク(ガンギエイの味噌汁)、軟泡湯(テナガダコスープ)、ピョンオジョリム(マナガツオの煮付け)などの土俗料理を全羅南道で生まれ育ったご主人が腕を振るうお店です。珍しいメニューである長い串にテナガダコを巻いて火であぶったナクチックリや、季節ごとに漬けるオリクルジョッ(粉唐辛子をまぜたカキの塩辛)、ヌマエビの塩辛、タチウオの塩辛なども味わうことができます。
2人以上で注文可能なセット定食、3人以上で注文可能なランチスペシャル定食、4人以上で注文可能なコース料理メニューがあり、人数に合わせて充実したコース料理を楽しむことができます。また、電話やホームページでの予約が可能なので、あらかじめ予約して訪問するとよいでしょう。
1.2Km 2025-05-16
ソウル特別市チュン区セジョンデロ99
大韓帝国の外交空間として企画された惇徳殿(トンドクチョン)は、徳寿宮内にある2階建ての洋館。惇徳殿は高宗が即位40周年記念行事の場として使用するため 建てた洋館で日本によって取り壊されたものの、2017年発掘調査をスタートし2023年9月正式に一般公開されました。新しく開館した「惇徳殿」は、大韓帝国の外交の場という歴史的な意味を生かして内部空間を、大韓帝国の外交史中心の展示と記録保管、図書閲覧、国内外の文化交流と芸術行事のための空間としています。
1.2Km 2025-06-10
ソウル特別市チュン区セジョンデロ99
史跡・徳寿宮(トクスグン)は、元々王宮ではなく、成宗(ソンジョン=1457~1494年・在位:1469~1494年)の兄にあたる月山大君(ウォルサンデグン=1454~1488年)の住居として使われていました。
1592年壬辰倭乱(日本で言う「文禄・慶長の役」)により王宮が全焼し、翌1593年、仮の王宮・行宮(ヘングン=離宮)として使われるようになりました。 壬辰倭乱により朝鮮時代第14代の王・宣祖(ソンジョ=1552~1608年・在位:1567~1608年)が都を離れ義州(ウィジュ)に避難、その後、漢陽(ハニャン=現在のソウル)へ戻ってくると、居をここ徳寿宮に構えました。 宣祖の後を継ぐ第15代の王・光海君(クァンヘグン=1575~1641年・在位:1608~1623年)は、1608年行宮となっていたこの場所で即位、1611年この行宮を慶運宮(キョンウングン)と改称し、以降7年間にわたり王宮として使っていました。しかし1615年になると、昌徳宮(チャンドックン)に居を移し、それ以降は270年に渡り、離宮として使われることになります。
朝鮮王朝第26代の王で大韓帝国時代には皇帝でもあった高宗(コジョン)(1852~1919年・在位:1863~1907年)が1896年2月からおよそ1年間、ロシア公館に一時身を寄せ、翌年、王宮に戻ってきましたが、その王宮がこの場所で、以降この場所が再び王宮として利用されることになりました。
高宗が再び王宮として使うようになり王宮の名称も再び慶運宮と呼ばれるようになり、その規模も拡大しました。そして、高宗皇帝は1907年、朝鮮王朝第27代の王・純宗(スンジョン=1874~1926年・在位:1907~1910年)に譲位した後も引き続きここに住み続け、王宮の機能は昌徳宮へと移りました。
引き続き、慶運宮に住むこととなった高宗ですが、高宗の長寿を願って、名称を徳寿宮と改称しました。
このような経緯があったことから現在、元々の慶運宮という名称を使うべきであるという声も上がっています。徳寿宮には過去、数多くの建物が存在していましたが、18,635坪(約6.2ヘクタール)の敷地に残っているのは、大漢門(テハンムン)、中和殿(チュンファジョン)、光明門(クァンミョンムン)、昔御堂(ソゴダン)、浚明堂(チュンミョンダン)、即阼堂(チュクチョダン)、咸寧殿(ムニョンジョン)、徳弘殿(トコンジョン)、そして石造殿など一部にすぎません。
徳寿宮は、特に朝鮮時代末期から大韓帝国時代にかけての旧韓末の悲運の皇帝・高宗が日帝の圧迫により譲位を強要され、恨(ハン)に満ちた余生を送り、1919年1月22日、徳寿宮の咸寧殿で日帝により毒殺されたと人々に伝えられ、翌々月の3月3日に予定されていた高宗の葬儀の直前の3月1日に起きた3・1独立運動の直接的な引き金となった現場でもあります。
* 大漢門 -大漢門は現在では徳寿宮の正門となっています。元々の名称は大安門(テアンムン)で、王宮の東門として使われていました。この大安門は1906年に再建され「大漢門」という名称がつけられました。扁額の文字は当時、漢城府(ハンソンブ=現在のソウル)判尹(パニュン=漢城府の長)を務めた南廷哲(ナム・ジョンチョル)によるものです。
* 光明門 -光明門は王の寝殿・咸寧殿の正門で、光武(クァンム)8(1904)年の大火により焼失したものを、同年再建したものです。1938年、石造殿を美術館として使い始め、貞洞(チョンドン)にあった興天寺(フンチョンサ)の梵鐘や昌徳宮の報漏閣(ポルガク)にあった自撃漏(チャギョンヌ)を現在の場所へ移した際に光明門も同時に移築して現在のところに建て直しました。
* 石造殿 -大韓帝国時代、外国の使節と接見した場所です。光武4(1900)年着工、隆熙(ユンヒ)3(1909)年完成した石造の建物で、朝鮮王朝で最後に建てられた大規模建造物です。建物の外観は十九世紀初めの欧州で流行していた新古典主義様式に倣ったもので、正面にある柱の上部にはイオニア様式で施しており、室内はロココ調の装飾がなされています。建物は3階建てで、1階には接見場所が、半地下階には侍従らの控室の場所として使われ、2階には皇帝のスペースとなっていました。植民地支配が終わりを告げた1945年の光復(クァンボク)以降は米ソ共同委員会会議場、国立博物館、国立現代美術館、宮中遺物展示館などとして利用されました。
* 咸寧殿 - 宝物に指定されている咸寧殿は1897年に建てられ、高宗皇帝が居を構えた建物として知られています。1904年の火災により焼失しましたが、同年建て直し現在に至っています。高宗皇帝は1919年1月21日この咸寧殿で薨去しました。その後使われなくなった咸寧殿に当時使われていた家具、書画、什器などを配置し、およそ100年前の王宮での暮らしぶりを改めて再現しました。
* 中和殿 - 大韓帝国の正殿として使われ、朝鮮王朝第26代の王・高宗の近代国家建設に懸ける自信が垣間見れる建物です。特に正殿内には御座の真上の天蓋を見ると、龍が二匹描かれているのが確認できますが、これは正殿の天井の龍のような模様となっており、徳寿宮が大韓帝国皇帝の皇宮であったことを感じされます。 現在残っている中和殿は1902年に重層の建物として建てられましたが、1904年の火災で焼失、その後1906年に平屋造りの建物で重建されました。
* 重明殿 - 重明殿(チュンミョンジョン)はロシアの建築家サバティ(Seredin Sabatin)の設計により1897年から1901年にかけて建築された皇室図書館です。地下1階を含む二階建ての西洋式の建物で、当初は漱玉軒(スオゴン)と呼ばれていました。2009年12月に復元され、2010年8月からは展示館「大韓帝国の運命をかけた場所、徳寿宮重明殿」として一般に公開されました。
* この他、昔御堂、浚明堂、即阼堂、静観軒(チョングァノン)、徳弘殿、報漏閣自撃漏などがあります。