大源寺(山清)(대원사(산청)) - エリア情報 - 韓国旅行情報

大源寺(山清)(대원사(산청))

大源寺(山清)(대원사(산청))

0m    24214     2021-07-20

慶尚南道 山清郡 三壮面 坪村油坪路453

大源寺(テウォンサ)は548年、智異山の天王峰の東側に縁起祖師が創建した寺で、当初は平原寺と呼ばれていました。その後、千年の間廃寺となっていましたが、1685年に雲捲禅師が寺を建立し、大源庵と寺名を改称しました。その後何度か改修を繰り返した後、麗水順天事件と韓国戦争(朝鮮戦争)で廃墟となり、しばらく放置されていました。1955年9月に法一和尚が住職に任命され、1986年までに大雄殿などを建てて今日に至ります。寺の近くには昔、ソンビ(学者)が修学したという居然亭、君子亭があります。

修禅社(수선사)

7.5 Km    0     2024-02-23

キョンサンナム道サンチョン郡サンチョン邑ネ里1117

修禅社(スソンサ)は、智異山(チリサン)熊石峰(ウンソクボン)にあるお寺です。 美しいアジサイと蓮花スポットとして有名であるため、多くの人々が訪問する場所でもあります。体験プログラムとしては心身を癒すことができるテンプルステイを運営しています。隣には修禅社で運営するカフェがあり、一緒に楽しめます。

智異山国立公園(山清)( 지리산국립공원(산청))

智異山国立公園(山清)( 지리산국립공원(산청))

7.5 Km    20679     2024-02-27

キョンサンナム道サンチョン郡シチョン面チリサンデロ320-2

智異山(チリサン)国立公園は韓国初の国立公園で、漢拏山(ハンラサン)の次に高い天王峰(チョヌァンボン)と般若峰(パニャボン)、老姑壇(ノゴダン)などの峰があります。山好きの登山客がよく訪問する山で、内院寺(ネウォンサ)渓谷など景色が美しい公園です。智異山自然休養林、内院寺などの観光スポットと山荘、キャンプ場、ペンションなどの便利施設があります。

七仙渓谷(智異山)(칠선계곡(지리산))

七仙渓谷(智異山)(칠선계곡(지리산))

7.6 Km    76522     2022-07-08

キョンサンナム道ハミャン郡マチョン面 チュソン里

「七仙(チルソン)渓谷」は智異山最大の渓谷美を誇り、雪岳山の千仏洞渓谷、漢拏山の耽羅渓谷と共に韓国の3大渓谷と言われています。智異山の代表的な渓谷でありながら険しい山々と秀麗な景観、そして智異山最後の原始林を挟んでいる七仙渓谷は7つの滝と33つの沼がつくる仙郷が、馬川面から天王峰まで16キロにものぼります。奥に入れば入るほど谷は鋭くなり、渓谷はその険峻によって多くの命を奪ってきたため別名「死の谷間」とも呼ばれています。

智異山丸太山荘(지리산통나무산장)

智異山丸太山荘(지리산통나무산장)

7.8 Km    26771     2020-11-18

慶尚南道 山清郡 矢川面 智異山大路511番地11-36
+82-55-973-0666

慶尚南道山清郡の智異山に位置する丸太ペンション「智異山丸太山荘」は、森の中の静かな場所にあります。智異山丸太山荘はオーナーが作り上げたもので、内部・床・壁・天井全体が丸太でつくられているため、環境にやさしい建物となっています。客室は2人室からファミリールーム、小規模団体室など、さまざまなタイプがあり、付帯施設にはバーベキュー場や子ども用プールがあります。夏場はペンション近くの渓谷で水遊びができます。智異山天王峰が目の前に広がり、中山里渓谷を通って天王峰まで登ることもできます。

山清韓方薬草祭り(산청한방약초축제)

山清韓方薬草祭り(산청한방약초축제)

9.2 Km    17101     2023-09-12

キョンサンナム道サンチョン郡クムソ面メチョン里
+82-55-970-6601~5

季節ごとに美しい風景を誇る智異山は1,000種以上の薬草が自生する薬草の宝庫です。智異山を抱く山清(サンチョン)は良質の薬草が手に入りやすく、東医宝鑑の著者である許浚先生をはじめとする数多くの名医が医学を学び医業を営んだところです。
東医宝鑑と薬草の里・山清で毎年9月、「山清韓方薬草祭り」が開かれます。韓方診療と韓方鍼などを無料で体験できる山清恵民署をはじめ、補薬体験、薬草足浴体験、ウェルネス体験などさまざまなヒーリング体験ができます。また、朝鮮時代の御医・医女衣装試着体験、伝統茶礼体験、民俗遊び体験など楽しい体験プログラムも用意されています。

イベント内容
1.メインプログラム:新恵民署、補薬体験、山清韓薬房体験など
2.体験参加プログラム:山清韓方薬草K-Healing、ウェルネスヘルスツアーなど
3.付帯プログラム:文化芸術公演、コンテスト
4.その他:薬草・特産物販売市場、智異山エコマーケットなど

白雲洞渓谷(山清)(백운동계곡(산청))

白雲洞渓谷(山清)(백운동계곡(산청))

9.5 Km    4763     2019-12-19

慶尚南道 山清郡 丹城面 白雲路 51番キル
+82-55-970-6421~3

白巖里から渓谷に沿って5キロメートルほど登ると、鬱蒼とした樹木の間に30坪ほどの広々とした「チョムジョン岩(バウィ)」と高さ5メートルほどの滝が壮観をなす「白雲洞(ペグンドン)渓谷」があります。渓谷の6キロメートル近く、岩肌の上だけに水が流れ、大小20ほどに達する滝と沼があります。渓谷の広い岩肌は日差しの水の流れに洗われて、白玉のように眩しく輝いています。その中でも最も有名なのが白雲瀑布と五潭瀑布。また「嶺南第一泉石」という文字が彫られている登天台は水の流れが荒いことで有名である他、最もきれいな自然環境を維持している清浄地域としても広く知られています。春には谷間につつじの花が咲き乱れ、夏には涼しい渓谷に多くの避暑客が訪れる名所となっています。

東医宝鑑村(동의보감촌)

東医宝鑑村(동의보감촌)

9.6 Km    9918     2018-10-18

慶尚南道 山清郡 今西面 東医宝鑑路555番キル45-6
+82-55-970-7216

韓方ヒーリング、ワンストップで楽しむ!

2007年に開館した韓国初の韓医学専門博物館を中心に韓方テーマ公園、山清薬草館、韓方気体験場、韓方自然休養林、韓医院など韓方ヒーリングを経験できるあらゆる施設が一堂に会しています。東医宝監を著した許浚(ホ・ジュン)先生がいなくても、許浚先生が構築した韓医学の知識をさまざまな角度から接することができるので、慢性的にストレスに悩んでいる方なら今すぐここを訪れてみることをおすすめします。


山清 伝・仇衡王陵(산청 전 구형왕릉)

山清 伝・仇衡王陵(산청 전 구형왕릉)

10.4 Km    17192     2020-07-13

慶尚南道 山清郡 今西面 仇衡王陵路
+82-55-970-6411

伝・仇衡王陵(チョン・クヒョンワンヌン=仇衡王陵と伝えられている王陵という意)は伽倻(カヤ)の第10代の王・ 仇衡王(クヒョンワン)の墓として後世に伝えられている積石塚で、仇衡王は仇亥(クヘ)あるいは譲王(ヤンワン)とも呼ばれています。伽倻の王・仇衡王はその後の新羅の将軍・金庾信(キム・ユシン)の曽祖父にあたる人物です。521年に伽耶国の王に即位し、532年新羅の法興王(ポプンワン)に領土を明け渡すまで11年間、王の座に在位しました。

この墓を巡り、石塔であるという説と、王陵であるという説の二つの説があります。この石積塚を塔と見る見解はこれと似たものが安東(アンドン)と義城(ウィソン)地方に分布していることを根拠にしています。
一方、王陵であるという根拠は韓国全土を網羅した地理誌「東国輿地勝覧」の山陰県山川條のところに「県の40里(注:韓国の1里は約400m)の山中に石で積まれた九龍があるが、四面にすべて段々となっておりが、世俗には王陵と伝えられている」という記録があります。

この墓に王名を付けた記録は朝鮮時代の文人・洪儀泳(ホン・ウィヨン=1750~1815年)の「王山尋陵記」(ワンサンシムヌンギ)に初めて登場しますが、墓の西側に王山寺(ワンサンサ)という寺があり、寺に伝えられている「王山寺記」に仇衡王陵という記録があったといいます。

一般の墓とは違い、傾斜のある丘の中腹にすべてで高さ7.15mの階段式の石段をなしています。前から見ると7段になった石積みで、後ろからは急な傾斜をそのまま利用して作られているため、平地に作られたピラミッド型の階段状の石積みとは異なった形となっています。墓の最上部は楕円形に石が積まれています。

 積石塚の真正面には「駕洛国譲王陵(カラックク・ヤンワンヌン)」と書かれた碑石があり、そのそばには石造物がいくつかありますが、これは近年に建てられたもので王陵の時代のものとは異なります。

朝鮮時代末期の正祖17(1793)年には、王山寺で長年伝承されてきた木箱から発見された仇衡王と王妃の肖像画、衣、弓などを収蔵するため、「徳譲殿(トギャンジョン)」という殿閣を建立、今日でも春や秋になると祭祀を執り行っています。




[詳細解説]
仇衡王陵と伝えられているこの積石塚・伝仇衡王陵は、駕洛編年記(カラクピョンニョンギ)によれば、新羅時代の法興王19(532)年、仇衡王が方丈山(パンジャンサン)の太王宮(テワングン)で亡くなり譲王(ヤンワン)という諡号(贈名)を追号しそこに埋葬されたということから、駕洛国第10代譲王の陵と言われています。譲王は新羅の王との戦いに敗れ、戦死したとも伝えられています。

この墓は一般の墳墓とは異なり、石積みの階段状になった方形をしており、西から東へと下る斜面に雑石で築造しています。
正面は7段となっていますが、後面は斜面に作られていることもあり前面に比べ傾斜があり段数も少なくなっています。石礫は正面からみても直線に積まれてはおらず、やや曲がった形で積まれ、また四隅も明確な形で作られておらず、最も上の部分は土を盛り上げて作る封墳のように楕円の半球型の形に石が積まれています。
前面中央から一番高いところまでの高さは7.15mほどあり、何の目的で作られたかは定かではありませんが第4段の東側に幅40cm、高さ40cm、深さ68cmの小さな仏像や位牌などを安置する龕室(カムシル)が設けられています。

この石積塚の周りには同じような雑石で高さ1mほどの塀が築かれており、また石積塚の真正面には「駕洛国譲王陵」と刻まれた石碑が建っています。さらに、その石碑の前には供え物などを置く平たい床石や石灯篭の一種・長明灯(チャンミョンドゥン)もあります。
その左右には文人石・武人石・石獣がそれぞれ一対ずつありますが、これら石造物は最近建てられたものであり石積塚とは年代的に大きな差がある石造物です。

この石積塚をめぐっては従来石塔という説と王陵という二つの説が提起されてきました。まず、これを石塔とする説はこのような形態の石塔が安東や義城地方に分布していることを根拠に挙げています。
一方、王陵とする説は「東国輿地勝覧」の山陰県山川條に「王山(ワンサン)」についての記述があり、その 脚注に「県の40里の山中に石で積んだ九龍があるが、四方すべての面が段々となっており、世間には王陵と伝えられている」という記録があります。
この墓を仇衡王陵という名称で初めて言及したのは洪儀泳(ホン・ウィヨン=1750~1815年)の ≪王山尋陵記(ワンサンシムヌンギ)≫でのことですが、近くにある王山寺(ワンサンサ)に伝えられている≪山寺記巻(シンサギグォン)≫に仇衡王陵と書かれていたといいます。
他の史料≪山清県遺誌≫によれば、正祖22(1798年)初めて王陵について言及したと記録している書物は、洪儀泳の ≪王山尋陵記≫で、これを根拠に王陵と判断したと思われます。伝えられるところでは、およそ200年前に村の人々が山に登り、祈雨祭(雨乞い)を行ったところ雨が降り、下山した王山寺で雨宿りをしていると、本堂の梁の上に正体不明の大きな木箱を見つけ、これを梁から下ろして中を見てみると、その中から仇衡王やその王妃の肖像画や服、弓、刀などの遺物とともに名僧・担渶(タンヨン)が記した王山寺記を発見、これを手掛かりに王陵を探し出すことができたといいます。
この時発見されたこれら遺物を所蔵するために朝鮮時代後期の正祖17(1793)年に徳譲殿を建て、それ以降毎年春と秋に追慕祭を執り行っています。

瑞庵精舎(咸陽)(서암정사(함양))

10.6 Km    43110     2024-02-21

キョンサンナム道ハミャン郡マチョン面クァンジョムギル27-79

瑞庵精舎(ソアムジョンサ)は、智異山七仙(チリサン・チルソン)渓谷の入り口にある碧松寺(ピョクソンサ)所属の庵です。1950年の韓国戦争により破壊された碧松寺を再建した元応(ウォヌン)和尚が自然の岩盤に彫刻した仏像と極楽世界を描いた石窟法堂を見ることができます。庵には大方広門、石窟法堂、獅子窟があります。