智異山万福台(지리산 만복대) - エリア情報 - 韓国旅行情報

智異山万福台(지리산 만복대)

智異山万福台(지리산 만복대)

13.5 Km    26468     2024-04-07

全羅南道 求礼郡 山洞面、チョンブク特別自治道 南原市 山内面 徳洞里
+82-61-780-7700

求礼郡山洞面と南原市の境目にある智異山西部の峰「万福台(マンボクテ)」は、その名の通り、福々しい山で、なだらかな丘陵を形成しています。万福台は智異山でも広大なススキ畑が広がる場所で、秋になると峰全体がススキ色に染まり、見事な壮観を演出します。春には山洞面山茱萸村で黄色い山茱萸の花を見て、万福台に上ったり、智異山温泉ランドに寄って温泉を楽しむのもよいでしょう。

智異山国立公園(南原)(지리산국립공원(남원))

14.0 Km    15367     2024-04-08

チョンブク特別自治道ナムウォン市チュチョン面チョンリョンチロ255

智異山(チリサン)国立公園は、慶尚(キョンサン)道と全羅(チョンラ)道にまたがっている標高1,915メートルの、南韓で2番目に高い山です。 北韓の白頭山(ペクトゥサン)と並んで神聖な山と呼ばれています。ツキノワグマが生息していて、天王峰(チョヌァンボン)をはじめと数えきれないほど多くの峰がそびえ立っています。春にはツツジなどの多様な花が咲いて、夏には鬱蒼として森、秋には紅葉、冬には樹霜と雪景色が美しいです。

山清 伝・仇衡王陵(산청 전 구형왕릉)

山清 伝・仇衡王陵(산청 전 구형왕릉)

14.7 Km    17192     2020-07-13

慶尚南道 山清郡 今西面 仇衡王陵路
+82-55-970-6411

伝・仇衡王陵(チョン・クヒョンワンヌン=仇衡王陵と伝えられている王陵という意)は伽倻(カヤ)の第10代の王・ 仇衡王(クヒョンワン)の墓として後世に伝えられている積石塚で、仇衡王は仇亥(クヘ)あるいは譲王(ヤンワン)とも呼ばれています。伽倻の王・仇衡王はその後の新羅の将軍・金庾信(キム・ユシン)の曽祖父にあたる人物です。521年に伽耶国の王に即位し、532年新羅の法興王(ポプンワン)に領土を明け渡すまで11年間、王の座に在位しました。

この墓を巡り、石塔であるという説と、王陵であるという説の二つの説があります。この石積塚を塔と見る見解はこれと似たものが安東(アンドン)と義城(ウィソン)地方に分布していることを根拠にしています。
一方、王陵であるという根拠は韓国全土を網羅した地理誌「東国輿地勝覧」の山陰県山川條のところに「県の40里(注:韓国の1里は約400m)の山中に石で積まれた九龍があるが、四面にすべて段々となっておりが、世俗には王陵と伝えられている」という記録があります。

この墓に王名を付けた記録は朝鮮時代の文人・洪儀泳(ホン・ウィヨン=1750~1815年)の「王山尋陵記」(ワンサンシムヌンギ)に初めて登場しますが、墓の西側に王山寺(ワンサンサ)という寺があり、寺に伝えられている「王山寺記」に仇衡王陵という記録があったといいます。

一般の墓とは違い、傾斜のある丘の中腹にすべてで高さ7.15mの階段式の石段をなしています。前から見ると7段になった石積みで、後ろからは急な傾斜をそのまま利用して作られているため、平地に作られたピラミッド型の階段状の石積みとは異なった形となっています。墓の最上部は楕円形に石が積まれています。

 積石塚の真正面には「駕洛国譲王陵(カラックク・ヤンワンヌン)」と書かれた碑石があり、そのそばには石造物がいくつかありますが、これは近年に建てられたもので王陵の時代のものとは異なります。

朝鮮時代末期の正祖17(1793)年には、王山寺で長年伝承されてきた木箱から発見された仇衡王と王妃の肖像画、衣、弓などを収蔵するため、「徳譲殿(トギャンジョン)」という殿閣を建立、今日でも春や秋になると祭祀を執り行っています。




[詳細解説]
仇衡王陵と伝えられているこの積石塚・伝仇衡王陵は、駕洛編年記(カラクピョンニョンギ)によれば、新羅時代の法興王19(532)年、仇衡王が方丈山(パンジャンサン)の太王宮(テワングン)で亡くなり譲王(ヤンワン)という諡号(贈名)を追号しそこに埋葬されたということから、駕洛国第10代譲王の陵と言われています。譲王は新羅の王との戦いに敗れ、戦死したとも伝えられています。

この墓は一般の墳墓とは異なり、石積みの階段状になった方形をしており、西から東へと下る斜面に雑石で築造しています。
正面は7段となっていますが、後面は斜面に作られていることもあり前面に比べ傾斜があり段数も少なくなっています。石礫は正面からみても直線に積まれてはおらず、やや曲がった形で積まれ、また四隅も明確な形で作られておらず、最も上の部分は土を盛り上げて作る封墳のように楕円の半球型の形に石が積まれています。
前面中央から一番高いところまでの高さは7.15mほどあり、何の目的で作られたかは定かではありませんが第4段の東側に幅40cm、高さ40cm、深さ68cmの小さな仏像や位牌などを安置する龕室(カムシル)が設けられています。

この石積塚の周りには同じような雑石で高さ1mほどの塀が築かれており、また石積塚の真正面には「駕洛国譲王陵」と刻まれた石碑が建っています。さらに、その石碑の前には供え物などを置く平たい床石や石灯篭の一種・長明灯(チャンミョンドゥン)もあります。
その左右には文人石・武人石・石獣がそれぞれ一対ずつありますが、これら石造物は最近建てられたものであり石積塚とは年代的に大きな差がある石造物です。

この石積塚をめぐっては従来石塔という説と王陵という二つの説が提起されてきました。まず、これを石塔とする説はこのような形態の石塔が安東や義城地方に分布していることを根拠に挙げています。
一方、王陵とする説は「東国輿地勝覧」の山陰県山川條に「王山(ワンサン)」についての記述があり、その 脚注に「県の40里の山中に石で積んだ九龍があるが、四方すべての面が段々となっており、世間には王陵と伝えられている」という記録があります。
この墓を仇衡王陵という名称で初めて言及したのは洪儀泳(ホン・ウィヨン=1750~1815年)の ≪王山尋陵記(ワンサンシムヌンギ)≫でのことですが、近くにある王山寺(ワンサンサ)に伝えられている≪山寺記巻(シンサギグォン)≫に仇衡王陵と書かれていたといいます。
他の史料≪山清県遺誌≫によれば、正祖22(1798年)初めて王陵について言及したと記録している書物は、洪儀泳の ≪王山尋陵記≫で、これを根拠に王陵と判断したと思われます。伝えられるところでは、およそ200年前に村の人々が山に登り、祈雨祭(雨乞い)を行ったところ雨が降り、下山した王山寺で雨宿りをしていると、本堂の梁の上に正体不明の大きな木箱を見つけ、これを梁から下ろして中を見てみると、その中から仇衡王やその王妃の肖像画や服、弓、刀などの遺物とともに名僧・担渶(タンヨン)が記した王山寺記を発見、これを手掛かりに王陵を探し出すことができたといいます。
この時発見されたこれら遺物を所蔵するために朝鮮時代後期の正祖17(1793)年に徳譲殿を建て、それ以降毎年春と秋に追慕祭を執り行っています。

燕谷寺(求礼)(연곡사(구례))

燕谷寺(求礼)(연곡사(구례))

15.1 Km    29071     2021-02-25

全羅南道 求礼郡 土旨面 ピアコル路774
+82-61-782-7412

求礼郡にある「燕谷寺(ヨンゴクサ)」は543年に華厳寺の宗主・縁起祖師によって創建されました。その後、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で焼失、さらに韓国戦争(朝鮮戦争)でも焼失しました。1981年3月1日、当時の住職であるチャン・スンブ僧侶が政府の支援とお布施で昔の本堂を撤去し、そこに御影石と自然石で石垣を築いて正面5間、側面3間の新しい本堂を建てました。寺の名前を燕谷寺としたのは、縁起祖師がここでツバメを見たことに由来しています。縁起祖師が初めてここに来て風水地理を見ていた時、現在の本堂の場所に池がありました。池を注意深く見ていると中央の水が渦巻き、一羽のツバメが飛び立ちました。そこでこの池を埋めて本堂を作り、寺の名を燕谷寺としたと伝えられています。

双磎寺(河東)(쌍계사(하동))

双磎寺(河東)(쌍계사(하동))

15.3 Km    17871     2024-02-23

キョンサンナム道ハドン郡ファゲ面サンゲサギル59

聖徳王21年(722年)に義湘大師の弟子である三法が創建した双磎寺(サンゲサ)は、全羅南道求礼邑から21キロメートル地点の、慶尚南道河東郡花開面花開里から雲樹里までの6キロメートル桜の木が並んでいる智異山の南の麓にあります。初期の名前は玉泉寺でしたが、その後、文聖王2年(840年)に真鑑国師 が再建した後、887年定康王が、禅寺の徳を仰いで双磎寺と改称しました。今の建物は壬辰倭乱(文禄・慶長の役)のときに消失したものを再建したものです。
双磎寺の春の桜は特に有名で、渓谷の澄んだ水と奇岩、古木が優れた景勝を作り出しています。境内の見所としては崔致遠の親筆である双磎石文、真鑑禅師大空塔碑(国宝)を過ぎ、北側500メートルほど行くと国師庵の庭に天然の楡の木、また東側に2キロメートルほど行くと青鶴峰と白鶴峰のふたつの渓谷を有する高さ60メートル幅3メートルのプリル瀑布(智異山10景のひとつ)などの名所があります。
また、双磎寺はお茶とゆかりの深い場所で、新羅・興徳王3年(828年)金大廉が唐の国に使臣として行って帰国した際、初めてお茶の種を持ち込み、王令で智異山の南側、双磎寺一帯に植え、最初の栽培地と言われています。そのため、お茶の栽培地記念碑(道記念物)もあります。

仏日滝(불일폭포)

15.5 Km    46440     2024-02-08

キョンサンナム道ハドン郡ファゲ面モガプギル103

標高720メートルに位置する仏日滝(プリルポクポ)は、高さ60メートル・幅3メートルで智異山(チリサン)最大の滝です。上下2段になっており、滝の下にあるヨンチュ池とハク池が自然の神秘を感じさせます。双磎寺(サンギェサ)から3キロメートルの地点にあり、双磎寺を見て回ってから仏日滝へ行くのがおすすめのコースです。

三聖宮(삼성궁)

15.5 Km    56428     2024-02-21

キョンサンナム道ハドン郡チョンアム面サムソングンギル86-15

三聖宮(サムソングン)は、智異山(チリサン)の標高850メートルに位置し、民族文化である神仙道を修行するための宗教施設です。カン・ミンジュ(ハンプル禅師)が1983年に弟子たちと一緒に古朝鮮時代の蘇塗を復元したもので、韓民族の祖先である桓因、桓雄、檀君を祀る神殿の役割を果たしています。

青鶴洞礼儀作法学校ソンビ書堂(청학동예절학교 선비서당)

青鶴洞礼儀作法学校ソンビ書堂(청학동예절학교 선비서당)

15.8 Km    28107     2024-03-04

キョンサンナム道ハドン郡チョンアム面ウォンムクギル60-10
+82-55-883-1155

智異山(チリサン)の河東(ハドン)方面の尾根の麓にある青鶴(チョンハク)洞には、現在30世帯200人余りの住民が住んでいます。青鶴洞には書堂が多く、青鶴洞礼儀作法学校ソンビ書堂では、礼儀作法教育、全人的な教育、漢文教育などのほか、伝統文化体験、農村体験、克己訓練などの体験プログラムも行っています。

河東野生茶文化祭り(하동 야생차문화축제)

河東野生茶文化祭り(하동 야생차문화축제)

16.0 Km    6488     2023-04-10

キョンサンナム道ハドン郡ファゲ面サンギェロ571-25
+82-55-880-2052~4

「河東(ハドン)野生茶文化祭り」が河東郡花開面と岳陽面一帯で開かれます。慶尚南道河東は約千年前に茶を栽培した記録が残っている、韓国茶の発祥地といえるところです。蟾津江に近く、霧が多く多湿で日較差が大きいため、茶の栽培に適した環境を備えており、河東産のお茶はその昔王に献上され、「王の茶」と呼ばれました。

イベント内容(2023年)
5月4日(木)開幕式
5月5日(金)「孝」コンサート
その他、さまざまな参加・体験プログラムが用意されています

東医宝鑑村(동의보감촌)

東医宝鑑村(동의보감촌)

16.3 Km    9918     2018-10-18

慶尚南道 山清郡 今西面 東医宝鑑路555番キル45-6
+82-55-970-7216

韓方ヒーリング、ワンストップで楽しむ!

2007年に開館した韓国初の韓医学専門博物館を中心に韓方テーマ公園、山清薬草館、韓方気体験場、韓方自然休養林、韓医院など韓方ヒーリングを経験できるあらゆる施設が一堂に会しています。東医宝監を著した許浚(ホ・ジュン)先生がいなくても、許浚先生が構築した韓医学の知識をさまざまな角度から接することができるので、慢性的にストレスに悩んでいる方なら今すぐここを訪れてみることをおすすめします。