16.6Km 2024-11-05
チュンチョンブク道沃川郡郡北面バンアシル通り255
美しい湖庭園の上にある絵のような植物園「水生植物学習園」は、韓国に生息する各種水生植物や熱帯地方の水生植物などを見ることができる場所だ。韓国で最も美しい湖庭園とも呼ばれるここは、入場時に事前予約が必要なので、必ずホームページで予約するようにしよう。
16.9Km 2024-12-27
セジョン特別自治市モロンジロ94
世宗(セジョン)伝統文化体験館は、韓国の伝統工芸や文化を体験し、韓国ならではの情緒を肌で感じることができる場所です。展示室と広報館には寺院の衣食住に関わる工芸品や伝統絵画が展示されており、体験室も備わっています。サムルノリ、タルチュム(仮面舞)、丹青、民画、書道などの伝統芸術体験、ビーガンフードと発酵食品を中心とした精進料理体験、瞑想、ヨガ、茶道などの文化体験プログラムが運営されています。
17.0Km 2022-12-26
テジョン広域市ソ区チャンアンロ461
大田広域市西区の壮安洞にある長泰山(チャンテサン)自然休養林にはイチョウの木やカラマツなどが鬱蒼と茂っています。周辺にあまり高い山はありませんが、渓谷が発達しており、夏は行楽地として人気があります。休養林内には登山路、森林浴場、体育施設、植物園、裸足体験路などの施設が整えられています。
17.0Km 2024-07-26
セジョン特別自治市タソムロ216
+82-44-865-2411
世宗文化院では、忘れられつつある端午(旧暦5月5日)の伝統文化を守るために世宗端午祭(セジョンタノジェ)を開催しています。さまざまな伝統文化体験を通して、昔の人たちの知恵を学ぶことができます。
17.1Km 2024-12-27
セジョン特別自治市タソムロ250
韓国の歴代大統領に関わる文書や写真、映像などを通じて韓国の現代史を体験できる展示館で、展示室、子ども体験館、映像館が備わっています。大統領執務室と接見室が再現されており、外交活動で外国から贈られたプレゼントや記念品、歴代大統領の専用車が展示されています。体験と遊びを通じて大統領になりきる子ども向け体験や選挙用ポスター作り、投票体験などのプログラムが運営されています。
17.2Km 2021-10-26
世宗特別自治市 将軍面 永平寺キル 124
永平寺(ヨンピョンサ)は、大韓仏教曹渓宗(チョゲチョン)第六教区・麻谷寺(マゴクサ)の末寺で、6つの文化財級の建造物や3つの土窟がある大韓民国伝統寺刹の修行道場です。 永平寺は小さい山にありますが、風水地理的に寺のそばにある錦江(クムガン)を遡っていく逆龍の地形といわれ、気運が強い素晴らしい場所・明堂(ミョンダン)の地と言われています。国土の7割が山である韓国では、将軍峰(チャングンボン)という名称の山の頂が数多くありますが、山自体の名前が将軍山というのは永平寺があるこの山しかありません。
険しい森も無く2時間もあれば登頂できるこの山を登ってきた、とある登山家はこのような言葉を述べました。「太白山でも感じることのなかった大きな気運や恐怖心のような警戒心を感じるほど大きな山でした。この名山に抱かれる永平寺は、この先大韓民国の国刹になることでしょう。」
ここを訪れた人々は口を揃えて気が休まると言う永平寺。ここには今でもホタルやザリガニ、タニシが棲むきれいな水や空気がある自然が残っており、そんな環境の中、静かでこじんまりとした修行の場となっているのがここ永平寺です。また永平寺の境内は、春にはオダマキの花、オキナグサの花、夏には白蓮、秋にはシベリアノギクの花など、さまざまな野花が先を争って咲き誇る花の宮殿でもあります。
17.4Km 2024-12-17
チュンチョンナム道コンジュ市キェリョン面ポモッコゲロ393
+82-10-5807-4344
儒・仏・巫の山神祭を毎年鶏龍山で開催することで伝統文化遺産を今日に合わせて伝承・発展させています。鶏龍山一帯の巫俗と中嶽壇を背景に陽化里マウルを文化的・経済的に特性化することを目的として毎年旧暦3月16日前後に開催されています。
17.6Km 2022-12-26
大田広域市 東区 上所洞 山 1-1
+82-42-251-4771
上所洞森林浴場は萬仞山と食蔵山の麓の中間地点にあり、スズカケノキが生い茂るトンネルで有名な場所です。自然体験や休養施設などが完備されており、家族連れや友達同士に最適なスポットとして人気を集めています。願い事を込めて積み上げる石の塔が随所に置かれており、独特な風景を演出しています。春から秋にかけて、様々な野生の花が咲き誇ります。
17.7Km 2021-01-29
世宗特別自治市 燕東面 ファンウジェキル22-17
+82-44-864-7000
黄龍寺(ファンニョンサ)は韓国仏教の太古宗に属する寺院で、創建については正確に知られていません。朝鮮中期の党争を避け、都落ちした黄喜(1363~1462年)の子孫が国の太平聖代と家門の繁昌を祈るための願刹として創建したと伝えられています。その後、黄喜の子孫が代々寺院を続けてきましたが、ある時期から頹落して廃墟となったとされています。