BOKアートセンター(비오케이아트센터) - エリア情報 - 韓国旅行情報

BOKアートセンター(비오케이아트센터)

12.0 Km    0     2023-02-01

セジョン特別自治市ククチェクヨングウォン3ロ12

BOKアートセンター(ビーオーケイアートセンター)は「より幸せな暮らしの空間を作ろう」とするイ・ギュスンBOK代表の経営理念から2019年に開館しました。センターには各種公演が開かれる劇場、多様な展示が開催されるギャラリー、遊び心をもつ大人向けのホビーファクトリー、ベーキングが楽しめるクメベーキングクラス、書店、カフェなどがあります。

公州韓屋村[韓国観光品質認証](공주한옥마을[한국관광 품질인증]/Korea Quality)

公州韓屋村[韓国観光品質認証](공주한옥마을[한국관광 품질인증]/Korea Quality)

12.0 Km    7749     2024-01-30

チュンチョンナム道コンジュ市クァングァンダンジギル12

公州(コンジュ)韓屋村は、公州の宋山里(ソンサンリ)古墳(武寧王陵)と国立公州博物館の間に位置しています。伝統オンドルが韓屋の昔の趣を漂わせながらも安全と盗難防止のためのカードキーシステムが導入され、安心して過ごすことができます。個別の宿泊棟は独立した一戸建で構成されており、団体の宿泊棟には客室ごとにロッカールームとシャワールームが別途で備えられています。その他、百済の衣装体験、百済の茶道体験、百済の遺物小道具作りなどの百済の歴史を学べる様々な体験プログラムが用意されています。

百済五感体験館(백제오감체험관)

12.1 Km    0     2024-01-30

チュンチョンナム道コンジュ市コマナルギル30

百済五感体験館には、近くの宋山里(ソンサンリ)古墳群や国立公州博物館で目と耳を通して学んだ歴史を自分の手で体験できる様々なコンテンツが用意されています。地下1階と地上1・2階に8つのテーマ館があり、拓本文様体験や夜光スタンプなどの五感を刺激する体験型遊びやゲームプログラムを通して観覧客が自然な形で熊津百済文化と歴史を学び、楽しめるようにしました。特に注目されるのは1階のロビーにある「共感の窓」で、建物2階の高さに相当する圧倒的なスケールのパネルが音とタッチに反応して色を変えます。このパネルは観覧客が体験館で撮った写真をハッシュタグ付きでSNSに投稿するとそれが画面に表示されるようになっており、デジタルネイティブ世代の興味を引くと期待されています。また、同じ階にある「創造の窓」では、百済遺物のぬり絵をクレパスで彩色してスキャナで読み込むと、プロジェクションマッピング映像で壁に映し出されます。
(出典:公州文化観光ホームページ)

公州第一教会(공주제일교회)

公州第一教会(공주제일교회)

12.6 Km    15     2020-08-14

忠清南道 公州市 済民1キル 18

公州第一教会は、1903年米国監理教の宣教師ウィリアム・B・マックギルが設立した教会で、建物は1931年に韓国における初期の教会様式を踏襲し建てられています。
韓国戦争(1950~1953年・休戦)時、建物の相当部分が壊れてしまいましたが、新築せず修復を行うことで再び教会として利用、建設当時の姿をいまに伝えています。
特に改築当時の鐘塔の一部のタイル処理、増築時に取りつけた画家・李南圭(イ・ナムギュ)氏のステンドグラス作品、ローマ時代の地下の墓所・カタコンベを彷彿とさせる半地下の個人祈祷室などは建築学的に大変価値があり、2011年に登録文化財第472号に指定されたほどです。
公州第一教会は忠清(チュンチョン)地域の宣教拠点となり、日帝強占期下の朝鮮で独立運動を支援した場所でもあり、韓国のジャンヌダルクとして有名な柳寛順(ユ・グァンスン)烈士や、独立運動家として活動し1945年の解放後、韓国で政治家として活躍した趙炳玉(チョ・ビョンオク)博士もこの教会に通っていました。
 このほか公州第一教会は教会本来としての役割のみならず、学校・病院・幼稚園なども併設し、近代化の先駆的役割を果たしました。

コムゴル食堂(곰골식당)

コムゴル食堂(곰골식당)

12.6 Km    0     2024-01-22

チュンチョンナム道コンジュ市ポンファンサン1ギル1-2

いつも客で賑わっている、公州(コンジュ)で有名な飲食店。年月を感じさせる古い門をくぐると、地味ながらも手入れの行き届いた庭園と店の建物があります。メニューは豚肉の炭火網焼き、焼き魚、太刀魚の煮付けの3種類のみですが、包み野菜と品数豊富な美味しい副菜がテーブルに並びます。副菜はセルフコーナーで好きなだけおかわりできます。すぐ食べられるように焼いて出される豚肉の炭火網焼きは、炭火の香りとほのかなタレの味が絶妙にマッチしており、焼き魚は表面がカリッと焼き上がり、中はしっとりしています。全メニュー1人前から注文できるのもうれしいポイントです。

鳳凰斎韓屋ゲストハウス [韓国観光品質認証] (봉황재 한옥 게스트하우스  [한국관광 품질인증/Korea Quality])

鳳凰斎韓屋ゲストハウス [韓国観光品質認証] (봉황재 한옥 게스트하우스 [한국관광 품질인증/Korea Quality])

12.7 Km    7     2021-03-29

忠清南道公州市クンセム3ギル8
+82-41-960-5525

鳳凰斎韓屋ゲストハウスは、韓屋体験ができる宿泊施設である。1960年代に建てられた都市型韓屋を感覚的にリフォームした。客室は4室ある。アンパン(母屋)は屋根裏のある部屋で吹き抜け構造になっている。最大4人まで利用できるため、家族連れに人気がある。縁側のあるクッパン(奥の部屋)は一番小さい部屋ではあるが、縁側に腰をかけて庭を眺めることができる。最大3人まで横になることができる。コンノンバン(居間と向かっている部屋)とウッパンは2~3人まで利用できる。各室にトイレ兼シャワー室がある。テチョンマル(縁側)とキッチン、前庭と裏庭は共用空間である。ホストが直接案内する「公州旧都心徒歩ツアー」はゲストハウスの予約時に一緒に予約できる。朝食サービスは無料で、トースト、ジャム、卵、シリアル、牛乳などが提供される。宿泊者を対象に写真作家によるスナップ写真撮影プログラムも運営される。忠青監営跡と大通寺址までは歩いて5分、山城市場、公山城、昔の宣教師私宅などは歩いて10分かかる。

錦江自然休養林(錦江樹木園、山林博物館)(금강자연휴양림(금강수목원,산림박물관))

錦江自然休養林(錦江樹木園、山林博物館)(금강자연휴양림(금강수목원,산림박물관))

13.3 Km    87484     2021-04-23

世宗特別自治市 錦南面 山林博物館キル110
+82-41-635-7400

1994年、忠清南道環境研究所がこの場所に移転し、しっかりと保存されていた周辺の森を錦江自然休養林に指定し、1997年10月には山林博物館もオープンしました。錦江自然休養林や山林博物館の他に、樹木園、熱帯温室、動物村、野生花園、展望台などがあり、自然について学ぶ教育の場として遜色がないほどの施設を備えています。
錦江自然休養林(237ヘクタール)と山林博物館(1,173平方メートル)には、1年で約25万人の観光客が訪れます。登山道(7.6キロメートル)、散歩コース、森の中の家などがあるため、こどもと一緒に学習したり、休養地として訪れるのにもおすすめです。

ベアツリーパーク(베어트리파크)

ベアツリーパーク(베어트리파크)

13.5 Km    11325     2023-01-27

セジョン特別自治市チョンドン面シンソンロ217

2009年5月に開園したベアツリーパーク(BEAR TREE PARK)は、設立者の李載淵氏が約50年間樹木の手入れをしながら動物を育ててきたところです。約33万平方メートル(約10万坪)の敷地に約1000種40万本の花や樹木が植えられており、約100匹のニシキゴイや数百頭のツキノワグマ、ヒグマなども生息しています。ベアツリーパークを一望できる展望台を始め、一年を通じて美しい花が咲き誇るベアツリー庭園、ツキノワグマの赤ちゃんやクジャク、ニワトリ、オシドリなどを見ることができるペット動物園などがあります。珍しい松の木を集めた庭園、枯れ木やイブキの木の庭園、野花を集めた散策路、熱帯植物を集めた熱帯温室、サボテン、木の化石、バラ園、盆栽など、多くの見どころがあります。また、樹齢100年超えるイブキの木の間に散策路を設けたイブキの丘、樹齢800年のケヤキの木がある韓国の地形を模ったヨーロッパ風の庭園もあります。

全義駅(전의역)

14.2 Km    1295     2016-08-10

世宗特別自治市 全義面 万歳キル10

全義駅は1905年1月に開業し、現在の駅舎の建物は1941年4月に新しく建てられた木造スラブ型で日本の建築様式が用いられており、2005年に改築されました。
全義駅という駅名は、1905年の開業当時からこの地名の全義面からとったものを使用しており、全義李氏がこの場所に定着したことから使われることになったと知られています。

黄龍寺(世宗)(황룡사(세종))

14.4 Km    9734     2021-01-29

世宗特別自治市 燕東面 ファンウジェキル22-17
+82-44-864-7000

黄龍寺(ファンニョンサ)は韓国仏教の太古宗に属する寺院で、創建については正確に知られていません。朝鮮中期の党争を避け、都落ちした黄喜(1363~1462年)の子孫が国の太平聖代と家門の繁昌を祈るための願刹として創建したと伝えられています。その後、黄喜の子孫が代々寺院を続けてきましたが、ある時期から頹落して廃墟となったとされています。