ハニル食堂(礼山挿橋)(한일식당(예산 삽교)) - エリア情報 - 韓国旅行情報

ハニル食堂(礼山挿橋)(한일식당(예산 삽교))

ハニル食堂(礼山挿橋)(한일식당(예산 삽교))

11.9 Km    1881     2024-02-21

チュンチョンナム道イェサン郡サプキョ邑サプキョヨクロ58

ハニル食堂は、70年伝統をもつ牛の頭部肉クッパ専門店で、サプキョ駅の前に位置しています。牛の頭部肉クッパは、牛の頭部骨と牛骨を入れてじっくり煮込んだスープに牛の頭肉、牛ホルモン、大根、乾燥大根葉っぱなどを入れて煮込んだ料理です。この食堂は釜に一日中だし汁を沸騰させていて、お客様が注文すると土鍋に入れて肉とネギをのせます。ここの牛の頭部肉クッパはやや辛いです。

伽倻山(瑞山)(가야산(서산))

伽倻山(瑞山)(가야산(서산))

12.3 Km    37714     2022-11-02

チュンチョンナム道ソサン市ヘミ面サンス里

伽倻峰(677.6メートル)を中心に、元曉峰(677メートル)、玉陽峰(621.4メートル)、日楽山(521.4メートル)、水晶峰(453メートル)、象王山(307.2メートル)などの峰がつながり、多様ながらも難しくない登山路があるため、老若男女誰でも山登りを楽しむことができます。また、頂上からは西海が見え、春になるとツツジ、レンギョウ、野花が咲きます。
伽倻山には、百済時代の磨崖石仏の最高傑作とされる国宝・瑞山磨崖三尊仏像をはじめ、普願寺址、開心寺、日楽寺などが位置しています。また国宝1点、宝物6点、文化財4点など各種文化財が散在しています。

礼唐貯水池(礼唐観光地)(예당저수지(예당관광지))

礼唐貯水池(礼唐観光地)(예당저수지(예당관광지))

13.1 Km    30421     2021-01-12

忠清南道 礼山郡 光時面 長田里
+82-41-339-8285

朝鮮時代末期の実学者・李重煥は、『択里志』で内浦の地が忠清道でもっとも住みやすいところだと記しました。内浦の地とは現在の礼山です。礼唐観光地は、現在、国民観光地指定面積である5万6千坪のうち1万3千坪が造成されています。主要施設は食堂、旅館、各種便宜施設などで利用しやすく、現在まで登山路や駐車施設など、6つの施設が完成しており、テーマのある観光地へと変化しています。特に、礼唐貯水池周辺の散策路や八角亭は、釜山の太宗台のような趣が感じられるようにつくられており、家族で散策したり、友達やカップルで訪れるのにもぴったりです。一年を通して釣り客で溢れ、夏には近くの住民も訪れるなど、人々が大勢訪れる観光名所として知られています。

釣りについて
1962年に造成された韓国でもっとも大きな貯水池である礼唐貯水池は、礼山郡と唐津郡の農耕地に水を供給しており、礼山郡と唐津郡の最初の一字を取って礼唐貯水池と名づけられました。中部圏最高の釣り場として知られており、冬場は氷上釣りが楽しめます。フナ、コイが多く、その他ウナギ、カムルチー、コウライギギ、ドジョウなどが棲息しています。

靖忠祠(洪城)(정충사(홍성))

靖忠祠(洪城)(정충사(홍성))

13.1 Km    0     2024-01-18

チュンチョンナム道ホンソン郡ソブ面パンギョ1ギル40-1

靖忠祠(チョンチュンサ)は淸難功臣・林得義(イム・ドギ)将軍の遺影と神位を奉安するために建てられた祠堂です。1632年に建てられ、その後 建物が老朽衰退し1872年に再建されました。靖忠祠は2009年10月20日忠清南道文化財資料に指定されている他、周辺には忠清南道文化財資料の林得義将軍墓や神道碑などが一廓をなしています。

礼唐湖吊橋(音楽噴水)(예당호 출렁다리(음악분수))

礼唐湖吊橋(音楽噴水)(예당호 출렁다리(음악분수))

13.3 Km    986     2022-04-19

忠清南道 礼山郡 鷹峰面 礼唐観光路 161

忠清南道(チュンチョンナムド)礼山郡(イェサングン)を代表する新たな観光地のひとつ、韓国最長の402メートルを誇る吊橋・礼唐湖(イェダンホ)吊橋。2019年4月6日にオープンした礼唐湖吊橋は、同年10月に完成した全長5.4キロメートルの遊歩道・ゆっくり湖の道(ヌリンホスキル)や全長140メートルの浮桟橋とともに美しい景観を成しています。また、白く雄壮なつり橋は、広々とした礼堂湖の湖畔に2004年オープンした礼堂湖彫刻公園とも調和しています。
2020年4月25日にお目見えした音楽噴水は長さ96メートル、幅16メートル、最大噴射高110メートル、面積1536平方メートルで、湖に設置された最も広い音楽噴水として韓国記録院に認定されています。グラデーション技法を適用したLED照明のカラフルな水と光の公演が20分繰り広げられ、韓国観光公社の「夜間観光100選」にも選ばれています。

広川土窟アミの塩辛団地(광천토굴새우젓단지)

広川土窟アミの塩辛団地(광천토굴새우젓단지)

13.5 Km    4623     2024-02-26

チュンチョンナム道ホンソン郡クァンチョン邑クァンチョンロ119

広川(クァンチョン)土窟アミの塩辛団地は、広川の特産物である塩辛の販売先が集積している場所です。広川は黄海から近く、水産物、とくにエビを原料とする塩辛で有名です。広川のアミの塩辛は、広川土窟トンネルに保存して熟成させたので質が高いです。広川土窟アミの塩辛に広報展示館もあります。毎年10月になると広川海苔・土窟アミの塩辛祭りが開かれます。

テフン食堂(대흥식당)

14.0 Km    0     2024-02-21

チュンチョンナム道イェサン郡トクサン面スドクサアンギル37-1

テフン食堂は、長い伝統を誇る山菜料理専門店で、韓国で有名なお寺の修徳寺入口に位置しています。看板メニューは釜飯蔓人蔘定食で、香ばしい蔓人蔘と多様な山菜料理はさっぱりとしておいしいです。きのこ入りねぎのチヂミ、タニシの酢の物、どんぐりピンデトク、どんぐりこんにゃくの和え物、スンドゥブなどの多様なメニューが用意されています。おかずはイシモチ焼き、鴨肉バーベキューゾーン、テンジャンククなどとたくさん出てきます。

秋陽祠(추양사)

秋陽祠(추양사)

14.3 Km    0     2024-01-16

チュンチョンナム道ホンソン郡ソブ面チサン5ギル25

秋陽祠(チュヤンサ)は、文臣であり義兵の金福漢(キム・ブクハン)の影幀を祀っている祠宇。明成皇后が殺害されると官職を捨てて都落ちし、忠清南道洪城(ホンソン)一帯で持続的に抗日義兵活動を遂行しました。獄中で1924年殉国し、1963年建国勲章独立章が追敍されました。祠宇は1975年に洪城郡守の趙栄鎬(チョ・ヨンホ)が建設したものです。祠堂と内三門、外三門で構成され、祠堂内部には金福漢の遺影が奉安されており、毎年旧暦3月15日に儒林と子孫たちが祭祀を行っています。

浄巌寺(洪城)(정암사(홍성))

14.5 Km    4269     2021-03-08

忠清南道 洪城郡 広川邑 烏棲キル 625
+82-41-641-0488

烏棲山(オソサン)の名物といえば、秋を迎えると山腹の一面が白一色に染まる葦原。烏棲山の葦原は広範囲にわたっており、山の中腹をほとんど覆ってしまうほどで、秋にはここで葦祭りも開催されます。
烏棲山の中腹には韓国の典型的な田舎にある、こぢんまりとした浄巌寺(チョンアムサ/浄岩寺)があります。浄巌寺の創建や沿革について今に伝える史料はほとんど残っていません。寺では527(百済聖王5)年に創建されたという説を採っていますが、その根拠となる史料はいまだ見つかっていません。しかし、朝鮮時代に編纂された邑誌『輿地図書』の結城県(キョルソンヒョン)の項には、断片的ながら記録が残っており、「浄巌寺は烏棲山にある。(中略)烏棲山は鴻山(ホンサン)から白月山(ペゴォルサン)へ続き、洪州(ホンジュ)、結城(キョルソン)、保寧(ポリョン)の三つの邑と境をなす」という内容があり、このことから18世紀半ばに寺が存在したことが、かろうじて確認できます。また、18世紀後半に編纂された寺に関する書物『伽藍考』にも「結城県の東側二十八里の地点に、浄巌寺がある」という記述がありますが、これが烏棲山の浄巌寺を指しているのかはっきりしていません。
寺には金堂があったとされる跡があります。この旧・金堂址の礎石は一辺の大きさが70~80センチの四角形の自然の礎石を用いており、ところどころ欠けているところがありますが、今でも整然とその痕跡が残っています。この痕跡から推測すると金堂は真北を向いた正面5間、側面3間の規模の建物であったとみられます。今後、旧・金堂址といわれている跡地について更なる考古学的調査が行われれば、浄巌寺の歴史を紐解く上で貴重な史料となることでしょう。

暘谷祠(양곡사)

暘谷祠(양곡사)

15.1 Km    0     2024-01-17

チュンチョンナム道ホンソン郡ソブ面ホンナムソロ131-31

暘谷祠(ヤンゴクサ)には朝鮮後期の性理学者として湖西地域の学者たちの学説である湖論を率いた韓元震(ハン・ウォンジン)、韓元震の弟子として湖洛論爭が起きた時は師の理論に従って湖論の人物性異論に同調した宋能相(ソン・ヌンサン)、韓元震の弟子で英祖の義父である金漢耉(キム・ハング)が従兄、貞純王后を背に老論僻派の領袖として英祖・正祖時代の政争を主導した金漢禄(キム・ハンロク)の位牌が祀られています。祠堂は1772年(英祖48)に李儒洛(イ・ユラク)、金斗淳(キム・ドゥスン)などの儒生が中心となって韓元震の業績を称えるために建立しました。以後1987年に再建され、宋能相と金漢禄を追配したものです。