靖忠祠(洪城)(정충사(홍성)) - エリア情報 - 韓国旅行情報

靖忠祠(洪城)(정충사(홍성))

靖忠祠(洪城)(정충사(홍성))

18.4 Km    0     2024-01-18

チュンチョンナム道ホンソン郡ソブ面パンギョ1ギル40-1

靖忠祠(チョンチュンサ)は淸難功臣・林得義(イム・ドギ)将軍の遺影と神位を奉安するために建てられた祠堂です。1632年に建てられ、その後 建物が老朽衰退し1872年に再建されました。靖忠祠は2009年10月20日忠清南道文化財資料に指定されている他、周辺には忠清南道文化財資料の林得義将軍墓や神道碑などが一廓をなしています。

合徳聖堂(합덕성당)

合徳聖堂(합덕성당)

18.5 Km    751     2023-06-19

チュンチョンナム道タンジン市ハプトク邑ハプトクソンダン2ギル16

1929年に建てられたゴシック様式のカトリック聖堂です。前身は古徳面上宮里に設立されたヤンチョン聖堂で、Curlier神父が現在の場所に合徳聖堂を建てて移転し、合徳聖堂に名称を変えました。その後、新合徳聖堂ができると旧合徳聖堂に改称され、のちに合徳聖堂という元の名前に戻りました。

礼唐湖吊橋(音楽噴水)(예당호 출렁다리(음악분수))

礼唐湖吊橋(音楽噴水)(예당호 출렁다리(음악분수))

18.6 Km    986     2022-04-19

忠清南道 礼山郡 鷹峰面 礼唐観光路 161

忠清南道(チュンチョンナムド)礼山郡(イェサングン)を代表する新たな観光地のひとつ、韓国最長の402メートルを誇る吊橋・礼唐湖(イェダンホ)吊橋。2019年4月6日にオープンした礼唐湖吊橋は、同年10月に完成した全長5.4キロメートルの遊歩道・ゆっくり湖の道(ヌリンホスキル)や全長140メートルの浮桟橋とともに美しい景観を成しています。また、白く雄壮なつり橋は、広々とした礼堂湖の湖畔に2004年オープンした礼堂湖彫刻公園とも調和しています。
2020年4月25日にお目見えした音楽噴水は長さ96メートル、幅16メートル、最大噴射高110メートル、面積1536平方メートルで、湖に設置された最も広い音楽噴水として韓国記録院に認定されています。グラデーション技法を適用したLED照明のカラフルな水と光の公演が20分繰り広げられ、韓国観光公社の「夜間観光100選」にも選ばれています。

アミ美術館(아미미술관)

アミ美術館(아미미술관)

18.7 Km    0     2023-06-19

チュンチョンナム道タンジン市スンソン面ナンブロ753

廃校となった旧柳洞小学校を活用した私立美術館です。伝統文化遺産や自然環境が急激に破壊され失われていく現状の中、地域の建築、文化、風俗、生活の様子などを損なうことなく、原形のまま保存して開放する生態美術館を目指しています。単なる展示プログラムにとどまらず、美術文化を活性化させるために新しいコンテンツを開発して競争力を高めており、唐津の生活を反映した船や建物など、時間の経過とともに失われがちなものを集めて復旧・保存し、 地域社会と共有するためのプロジェクトを開発しています。
(資料提供:アミ美術館)

暘谷祠(양곡사)

暘谷祠(양곡사)

19.0 Km    0     2024-01-17

チュンチョンナム道ホンソン郡ソブ面ホンナムソロ131-31

暘谷祠(ヤンゴクサ)には朝鮮後期の性理学者として湖西地域の学者たちの学説である湖論を率いた韓元震(ハン・ウォンジン)、韓元震の弟子として湖洛論爭が起きた時は師の理論に従って湖論の人物性異論に同調した宋能相(ソン・ヌンサン)、韓元震の弟子で英祖の義父である金漢耉(キム・ハング)が従兄、貞純王后を背に老論僻派の領袖として英祖・正祖時代の政争を主導した金漢禄(キム・ハンロク)の位牌が祀られています。祠堂は1772年(英祖48)に李儒洛(イ・ユラク)、金斗淳(キム・ドゥスン)などの儒生が中心となって韓元震の業績を称えるために建立しました。以後1987年に再建され、宋能相と金漢禄を追配したものです。

礼山 任存城(예산 임존성)

礼山 任存城(예산 임존성)

19.2 Km    6272     2022-08-17

チュンチョンナム道イェサン郡クァンシ面マサ里サン28

礼山郡光時面と大興面、洪城郡金馬面が出合う地点に海抜483.9メートルの鳳首山があります。この山頂にある任存山城は、高い位置に井戸を掘って水を集めておき、攻撃のときに排水口を開けて水を噴き出させ、敵を一時的に苦境に陥れる攻撃を加える目的で造られた城です。
任存山城は約4キロメートルのテメ式(7、8合目の稜線に沿って水平に峰を一周する方式)の石垣で築造されており、城壁の高さは2.5メートル、幅は3.5メートルで、南側の城壁はひどく曲がりくねっており、城内には7、8メートルの内堀があります。外壁は石を積んで造られており、中は土で埋められています。周囲の長さは約5,194尺、高さ約2.5メートル、幅約3.5メートルで、馬で走っても十分な広さがあります。660年に百済が羅唐連合軍に負けたとき、義慈王のいとこの弟である福信、道琛(僧侶)と黒歯常之が3年間、後百済復興運動の拠点として活用し、百済の山城の中でもっとも規模が大きく、山城研究の基礎となっています。
城郭に沿って下りると大蓮寺があり、頂上からは南から西へと伸びる烏棲山、白月山、伽倻山を一目で見ることができます。この城の特徴は、四隅を堅牢な造りにするため、他の場所より2メートルほど厚く内托(外側は石造りにし、中は割石や土で埋める方法)にし、城の高さも高めになっています。光時面馬沙里方向からは城の下まで林道を利用し、車で駐車場まで行くことができます。

大興東軒(대흥동헌)

大興東軒(대흥동헌)

19.3 Km    3293     2020-04-14

忠清南道 礼山郡 大興面 ウィチョウンヒョンジェキル 33
+82-41-339-7332

東軒(トンホン)とは各地方の地方官・守令(スリョン)が政務を執り行っていた建物のことで、守令の生活の拠点となっていた内衙(ネア=西軒[ソホン])と区別し、内衙の東に建っていたことから東軒と呼ばれるようになりました。
つまり東軒は、守令が仕事をする官庁の本庁舎のような建物だったのです。
ここにある大興東軒(テフントンホン)は正面6間(14.4m)、側面2間(4.8m)、軒高3.3mの垂木が一段の構造となっている軒の入母屋造り木造瓦屋根の建物です。
この大興面(テフンミョン)にある東軒は朝鮮時代後期の建築様式の建物で、上梁文に永楽5(1407)年に建てられたとの記録があり、大興郷校(1405年)とともに朝鮮時代の第3代の王・太宗(テジョン・在位:1400~1418年)の時代に建てられたものと思われます。
康熙42(1703)年には重修を行ったという記録があり、朝鮮時代の第19代の王・肅宗(スクチョン・在位:1674~1720年)の治世時に大興(テフン)が郡に昇格した当時、重修されたものと見られます。
現在の東軒の建物は、一時期、日帝強占期(1910~45年)に大興面が礼山郡(イェサングン)に編入された後、大興面事務所に改築されたことがあります。日本の植民地から解放された後も大興面事務所として使われていましたが、大興面事務所が現在の場所に新築されたのを受け1979年に解体・復元を行い、元の東軒の姿を取り戻しました。