無量寺(扶余)(무량사(부여)) - エリア情報 - 韓国旅行情報

無量寺(扶余)(무량사(부여))

無量寺(扶余)(무량사(부여))

9.2 Km    7008     2021-11-12

忠清南道 扶余郡 外山面 無量路203
+82-41-836-5066

「無量寺(ムリャンサ)」は、忠清南道扶余郡万寿山のふもとに位置している寺です。新羅文武王の時代に梵日国師(泛日国師)が創建した寺院で何度かの修復を経て今日に至ります。韓国一の阿弥陀祈祷道場で、四天王門を過ぎると正面に宝物第356号に指定された無量寺極楽殿が見えます。四天王門は無量寺の趣が最も感じることができる位置にあり、層区分がない二階極楽殿と五重石塔(宝物第185号)、石燈(宝物第233号)が一列に並ぶ姿は壮観です。その他、極楽殿塑造阿弥陀如来三尊坐像(宝物第1565号)も威容を誇ります。無量寺は生六臣の梅月堂金時習が入寂した所で、境内には彼の肖像画などもあります。

尚和園(상화원)

尚和園(상화원)

9.9 Km    0     2024-02-20

チュンチョンナム道ポリョン市ナンポ面ナンポバンジョジェロ408-52

尚和園(サンファウォン)は、竹島(チュクト)の自然を守るために設けられた韓国式伝統庭園で、草花を尊ぶという意味で「尚和園」と名付けられたそうです。島の周囲には全長1kmの屋根付きの回廊があります。尚和園には、朝鮮時代初期に建てられたと推定されている韓屋の義谷堂をはじめ、韓屋村、板石広場、ハヌル(空)庭園など多彩な施設があります。板石広場は保寧(ポリョン)特産の「烏石」で造られていて、ハヌル庭園からは3階建ての建物の高さから西海岸に陽が沈む風景を観ることができます。またここは、約20室の客室のある宿になっています。清潔感ある現代式の施設となっていて、少し高台にあるので、客室から一歩出ると美しい尚和園の風景が一望できます。『若手俳優のリトリート』(2022)では出演者の宿としても使われ、放送に合わせて大きく話題となりました。

竹島(保寧)(죽도(보령))

竹島(保寧)(죽도(보령))

10.0 Km    2877     2021-06-02

忠清南道 保寧市 藍浦面 藍浦防潮堤路 408-54
+82-41-932-2023

「竹島(チュクト)」はその名の通り竹の多い島です。防潮堤がつくられた後には陸地とつながり、その道路がドライブコースとなっており、保寧地方の新しい観光地として人気を集めています。

保寧 青所駅(보령 청소역)

10.4 Km    27373     2018-04-24

忠清南道 保寧市 青所面 青所クンキル 176

青所(チョンソ)駅は長項線(チャンハンソン)の鉄道駅です。
青所駅の駅舎は長項線で現存する最も古い駅舎で、原型がよく保存されており、建築的、鉄道の歴史上でも価値が大きいと評価され登録文化財第305号に指定されています。

長項線は元々私鉄の朝鮮京南鉄道株式会社が忠南線という名称で天安~温陽間を1922年6月1日に開業、1931年8月1日には全線開通させました。

1946年5月、私鉄国有化政策により国有化され、1955年6月に長項線と改称されました。

近隣には温陽・道高などの温泉があり、また礼山・洪城・広川・大川などの主要地方都市を結び、忠清南道南西部の地方交通の要となっています。
青所駅は1929年駅員配置簡易駅として営業を開始し、1958年9月普通駅に転換した後、1961年に作られた煉瓦造りの駅舎です。
もともとの名称は近隣の村の名前を撮って「真竹(チンチュク)駅」と呼ばれていましたが、後に「青所駅」に改称しました。
長項線で残っている駅舎の中で最も古い歴史を誇り、現在簡易駅として使用しています。
韓国戦争以降の典型的な近代簡易駅舎の建築様式を反映して作られたのがこの青所駅の駅舎です。

周辺には烏棲山(オソサン)をはじめ、鰲川港(オチョンハン)、忠清水営城(チュンチョンスヨンソン)などの観光地が近くにあります。

保寧忠清水営城(보령 충청수영성)

11.8 Km    28813     2024-02-22

チュンチョンナム道ポリョン市オチョン面チュンチョンスヨンロ

保寧(ポリョン)忠清水営城(ポリョン・チュンチョンスヨンソン)は、黄海(ファンヘ、西海)から侵入してくる外敵を防ぐために朝鮮王朝が16世紀に築いた石城です。黄海と島々を眺望することができ、景観が美しいことで知られており、城の入り口「望華門(マンファムン)」は、花崗岩を削ってアーチ型に建てられ、石造建築の美しさを窺い知ることができます。ここは19世紀にカトリック教徒への迫害が行われた場所でもあります。

鰲川港(오천항)

11.9 Km    39628     2024-02-22

チュンチョンナム道ポリョン市オチョン面ソソン里

鰲川港(オチョンハン)は、保寧(ポリョン)市の北部、黄海(ファンヘ)と広川川(クァンチョンチョン)が合流するところに位置し、朝鮮時代は地方行政の中心地とされるほど、重要な地域でした。現在も港湾機能は残っており、市場では黄海で獲れる様々な海産物を見物したり購入することができます。鰲川港旅客ターミナルでは、月島(ウォルト)、陸島(ユクト)など近隣の島々を繋ぐ旅客船が運航されています。

国立烏棲山自然休養林(국립 오서산자연휴양림)

国立烏棲山自然休養林(국립 오서산자연휴양림)

13.0 Km    40439     2022-07-04

チュンチョンナム道ポリョン市チョンナ面オソサンギル531

2001年9月22日にオープンした烏棲山(オソサン)自然休養林は、忠清南道保寧市青羅面にあるミョンデ渓谷の近くに位置しています。烏棲山という地名は「カラスの棲家」という意味で、昔はカラスやカササギが多く生息していたといわれています。チケット売り場から林道沿いに進むと分かれ道があり、左に行くと「森の中の修練場」があります。修練場の後方にある探訪路を進むと竹林や休養林周辺の森を一周することができます。烏棲山の頂上からは広々とした西海岸を眺めることができます。

青陽タラッコルチュルムドム聖地(청양 다락골 줄무덤 성지)

青陽タラッコルチュルムドム聖地(청양 다락골 줄무덤 성지)

13.1 Km    5958     2020-06-25

忠清南道 青陽郡 化城面 タラッコルキル78-6
+82-41-943-8123

忠清南道青陽郡、樓谷に位置するチュルムドム(列墓)聖地は天主教信者の無名殉教者たちの墓です。また、この村は京畿道果川で殉教した崔京換聖人と韓国2番目の司祭である崔良業神父の誕生地でもあります。1つの場所に複数の人を埋葬しているためチュルムドム(列墓)といいます。
殉教者の数と姓名、殉教経緯などは分かりませんが家族単位で埋葬され、名前の分からない殉教者たちの墓37基がここ樓谷で墓の列をつくっていて、1982年に青陽聖堂によって清められた墓地に無名の殉教者たちのための墓碑を立て史跡地として造ってから天主教信者をはじめ多くの人が訪れています。
ここチュルムドムの殉教者、聖崔京換フランシスコの遺骨の一部を1986年に切頭山 殉敎紀念館に移して祀っており現在、墓の数は総36基です。

武昌浦海水浴場(무창포해수욕장)

武昌浦海水浴場(무창포해수욕장)

13.2 Km    8137     2021-08-11

忠清南道 保寧市 熊川邑 ヨルリンパダ1キル 10
+82-41-936-3561

「武昌浦(ムチャンポ)海水浴場」は、朝鮮時代の軍倉址であり、1928年に西海岸で初めて開放された海水浴場です。砂浜は長さ1.5キロメートル、水深1~2メートル程度と浅く、海水浴場の周辺に松林が茂り、海水浴と森林浴を同時に楽しめます。毎月引き潮の時にはこの海水浴場から無人島であるソクデ島までの1.5キロメートルに渡り、韓国版モーゼの奇跡と呼ばれる海割れ現象が見られることでも有名で、1996年から本格的に一般公開されています。

浄巌寺(洪城)(정암사(홍성))

13.8 Km    4269     2021-03-08

忠清南道 洪城郡 広川邑 烏棲キル 625
+82-41-641-0488

烏棲山(オソサン)の名物といえば、秋を迎えると山腹の一面が白一色に染まる葦原。烏棲山の葦原は広範囲にわたっており、山の中腹をほとんど覆ってしまうほどで、秋にはここで葦祭りも開催されます。
烏棲山の中腹には韓国の典型的な田舎にある、こぢんまりとした浄巌寺(チョンアムサ/浄岩寺)があります。浄巌寺の創建や沿革について今に伝える史料はほとんど残っていません。寺では527(百済聖王5)年に創建されたという説を採っていますが、その根拠となる史料はいまだ見つかっていません。しかし、朝鮮時代に編纂された邑誌『輿地図書』の結城県(キョルソンヒョン)の項には、断片的ながら記録が残っており、「浄巌寺は烏棲山にある。(中略)烏棲山は鴻山(ホンサン)から白月山(ペゴォルサン)へ続き、洪州(ホンジュ)、結城(キョルソン)、保寧(ポリョン)の三つの邑と境をなす」という内容があり、このことから18世紀半ばに寺が存在したことが、かろうじて確認できます。また、18世紀後半に編纂された寺に関する書物『伽藍考』にも「結城県の東側二十八里の地点に、浄巌寺がある」という記述がありますが、これが烏棲山の浄巌寺を指しているのかはっきりしていません。
寺には金堂があったとされる跡があります。この旧・金堂址の礎石は一辺の大きさが70~80センチの四角形の自然の礎石を用いており、ところどころ欠けているところがありますが、今でも整然とその痕跡が残っています。この痕跡から推測すると金堂は真北を向いた正面5間、側面3間の規模の建物であったとみられます。今後、旧・金堂址といわれている跡地について更なる考古学的調査が行われれば、浄巌寺の歴史を紐解く上で貴重な史料となることでしょう。