3.2 Km 0 2024-02-15
ソウル特別市ソンブク区ソンブクロ23ギル132-3
北亭(プクジョン)村は、城北(ソンブク)洞の山麓にある村で、韓国の古い路地がツアーできる場所です。韓国戦争以降、避難民や地方から上京した人々が、崩れた漢陽(ハニャン)都城の城壁の下に掘っ立て小屋を建てて住むようになり、村の規模が大きくなりました。現在は、若い芸術家も集まって住んでおり、村のバス停前にある広い道では村の行事が開かれたりします。
3.2 Km 19387 2021-05-24
ソウル特別市 城北区 城北路15キル 9
崔淳雨旧宅は、美術史学者で元国立中央博物館長でもあった兮谷(ヘゴク)崔淳雨(チェ・スヌ1916~1984年)氏が、1976年からこの世を去るまで住んでいた家です。
1930年代の近代韓屋である記念館の建物は市民の募金により買い上げられ、ナショナルトラスト市民文化遺産第1号(登録文化財第268号)となりました。以降、先生の志を称えるため、記念館として運営されています。
3.2 Km 10110 2021-04-09
京畿道 高陽市 徳陽区 大西門キル 375
北漢山城(プカンサンソン)は百済が河南慰礼城(ハナムウィレソン)に都邑を移した際、都を守る北方の山城として、百済時代の蓋婁王5(132)年に築城しました。この時、百済の主力軍がこの山城で高句麗の南進勢力を防ぎました。
しかし長寿王63(475)年に強大な高句麗軍が北漢山城を7日間に渡り攻撃し熾烈な攻防戦の末、城が陥落、同時に百済の都も占領され、百済の王・蓋鹵王が高句麗軍に囚われの身となりその後殺されました。
この戦により百済は公州(コンジュ)・熊津城(ウンジンソン)へと遷都し、その後百済と新羅は手を結び、高句麗の南進政策を連合して戦線を張り、防ぎました。
真興王12(553)年、新羅は百済の領土であった漢城地域(現在のソウル)を新羅の領土に編入しました。
真平王25(603)年8月には高句麗の将軍・高勝(コ・スン)が新羅が主となった北漢山城を包囲・攻撃を開始、これに対し新羅の真平王は1万人の兵力を従え援軍を送り戦いました。
その後も武烈王8(661)年5月には高句麗の将軍・悩音信(ヌェウムシン)が中国東北部・沿海州にいた民族・靺鞨(マルカル)の将軍・生偕(センヘ)とともに北漢山城を20日間に渡り包囲・攻撃し熾烈な攻防戦を繰り広げました。
この時、北漢山城の城主であった冬陀川(トンタチョン)は城内にいた住民2,800人とともに決死の決戦を敢行し、山城を守りました。
主な文化財
1) 北漢山真興王巡狩碑址(史跡第228号)
2) 磨崖如来坐像(宝物第215号・ソウル特別市鐘路区旧基洞)
3) 磨崖如来立像(宝物第657号・ソウル特別市恩平区寛津洞)
4) 太古寺円証国師塔碑(宝物第611号・京畿道高陽市北漢洞)
5) 太古寺円証国師塔(宝物第749号・京畿道高陽市北漢洞)
6) 蕩春台城(地方文化財第33号・ソウル特別市鐘路区新営洞・ソウル特別市西大門区弘済洞)
7) 燕山君墓(史跡第362号)
3.3 Km 25433 2022-11-10
ソウル特別市カンブッ区4.19ロ8ギル17
三角山(北漢山)の麓にある国立4.19墓地は李承晩政権打倒を叫び1960年4月19日に起きた4.19革命(民主化運動)の際、犠牲となった224人の合同墳墓です。犠牲となった人々をたたえる記念塔が建てられ、記念塔の中央には志半ばで犠牲となった人々をたたえる碑文がきざまれています。
135,901平方メートルの墓地敷地内は松やイブキ、イチイやカエデなど緑豊かで、記念館や犠牲者の遺影を祀る遺影奉安所などがあります。その他、象徴門、民主の根、正義の火花なのど彫刻作品や蓮池があり、歩道ブロックをきれいに敷詰めた散策路や野外ベンチなどもあります。桜が咲く春、公園から臨む三角山はあたたかさと華やかさを同時に感じることができ、夕陽が沈む光景も素晴らしい場所です。
3.3 Km 0 2024-04-28
ソウル特別市カンブク区トボンロ62、5階(ミア洞、ロッテ百貨店ミア店)
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