保寧川北牡蠣団地(보령 천북굴단지) - エリア情報 - 韓国旅行情報

保寧川北牡蠣団地(보령 천북굴단지)

17.8 Km    35138     2024-04-22

チュンチョンナム道ポリョン市チョンブク面ホンボロ1061

保寧(ポリョン)川北(チョンブク)牡蠣団地は、洪城(ホンソン)防潮堤付近の牡蠣専門店が集まっている場所をいいます。保寧(ポリョン)は牡蠣が特に多く獲れる地域で、11月から2月までの牡蠣は最高級品とされています。12月に開かれる「川北牡蠣祭り」では、観光客向けのイベントがたくさん行われ牡蠣焼きや生牡蠣、牡蠣ご飯など、牡蠣を使った様々な料理を味わうことができます。

礼山 任存城(예산 임존성)

礼山 任存城(예산 임존성)

17.9 Km    6272     2022-08-17

チュンチョンナム道イェサン郡クァンシ面マサ里サン28

礼山郡光時面と大興面、洪城郡金馬面が出合う地点に海抜483.9メートルの鳳首山があります。この山頂にある任存山城は、高い位置に井戸を掘って水を集めておき、攻撃のときに排水口を開けて水を噴き出させ、敵を一時的に苦境に陥れる攻撃を加える目的で造られた城です。
任存山城は約4キロメートルのテメ式(7、8合目の稜線に沿って水平に峰を一周する方式)の石垣で築造されており、城壁の高さは2.5メートル、幅は3.5メートルで、南側の城壁はひどく曲がりくねっており、城内には7、8メートルの内堀があります。外壁は石を積んで造られており、中は土で埋められています。周囲の長さは約5,194尺、高さ約2.5メートル、幅約3.5メートルで、馬で走っても十分な広さがあります。660年に百済が羅唐連合軍に負けたとき、義慈王のいとこの弟である福信、道琛(僧侶)と黒歯常之が3年間、後百済復興運動の拠点として活用し、百済の山城の中でもっとも規模が大きく、山城研究の基礎となっています。
城郭に沿って下りると大蓮寺があり、頂上からは南から西へと伸びる烏棲山、白月山、伽倻山を一目で見ることができます。この城の特徴は、四隅を堅牢な造りにするため、他の場所より2メートルほど厚く内托(外側は石造りにし、中は割石や土で埋める方法)にし、城の高さも高めになっています。光時面馬沙里方向からは城の下まで林道を利用し、車で駐車場まで行くことができます。

暘谷祠(양곡사)

暘谷祠(양곡사)

19.2 Km    0     2024-01-17

チュンチョンナム道ホンソン郡ソブ面ホンナムソロ131-31

暘谷祠(ヤンゴクサ)には朝鮮後期の性理学者として湖西地域の学者たちの学説である湖論を率いた韓元震(ハン・ウォンジン)、韓元震の弟子として湖洛論爭が起きた時は師の理論に従って湖論の人物性異論に同調した宋能相(ソン・ヌンサン)、韓元震の弟子で英祖の義父である金漢耉(キム・ハング)が従兄、貞純王后を背に老論僻派の領袖として英祖・正祖時代の政争を主導した金漢禄(キム・ハンロク)の位牌が祀られています。祠堂は1772年(英祖48)に李儒洛(イ・ユラク)、金斗淳(キム・ドゥスン)などの儒生が中心となって韓元震の業績を称えるために建立しました。以後1987年に再建され、宋能相と金漢禄を追配したものです。

七甲山天文台スターパーク(칠갑산천문대 스타파크)

七甲山天文台スターパーク(칠갑산천문대 스타파크)

19.4 Km    30818     2024-02-01

チュンチョンナム道チョンヤン郡チョンサン面ハンティゴゲギル178-46

七甲山(チルガプサン)天文台スターパークは七甲山道立公園内にある天文・宇宙をテーマにした科学館です。天文台は3階建てで、1階には立体ドーム上映館と視聴覚室、2階には広報館と展望台があります。観測は3階の主観測室と補助観測室で行われます。屈折望遠鏡(APO 304mm)が設置されている主観測室では、主に昼間の時間帯に太陽の黒点とプロミネンスの観測が行われます。180度ドーム型3段スライドシステムを備えた補助観測室では、400mm反射望遠鏡などを用いて夜間の観測が可能。惑星、星団、星雲など星の観測が行われます。5D映像体験が可能な12mジオデシックドームのプラネタリウムも子どもに人気があります。南泉里山村生態村や近くのアルプス村に滞在しながら七甲山天文台と天庄湖吊橋へ行くのもおすすめです。

七甲山道立公園(칠갑산도립공원)

七甲山道立公園(칠갑산도립공원)

19.7 Km    4647     2021-08-13

忠清南道 青陽郡 大峙面 長谷キル 241
+82-41-635-7690

七甲山(標高561メートル)は小高い頂と渓谷がある天然林が生い茂る名山です。
1973年3月6日に道立公園に指定された七甲山道立公園は、面積32.542平方キロメートルを誇り、三つの面(ミョン=韓国の行政区域のひとつ)に広がっています。
七甲山道立公園内には山頂、九十九谷、七甲山荘(崔益鉉銅像、『七甲山』歌謡彫刻品など)、チャンスン公園、天庄湖(チョンジャンホ)、長谷寺(チャンゴクサ)、定慧寺(チョンヘサ)、自然休養林、 道林寺址(トリムサジ)、豆率城(トゥユルソン)などがあります。
特に七甲山は四季の移ろいが明瞭で、春にはチョルチュク(クロフネツツジ)や桜に彩られ艶やかな風景となり、夏には緑生い茂る天然林が人々に癒しをもたらし、また秋には色とりどりの紅葉で彩られ、冬の雪景色は天上の世界にやってきたかのような美しい景色が見られるなど、一年を通じて登山で訪れる人々に七甲山ならではのすばらしさを感じさせてくれる名山です。七甲山には七つの登山路があり、それぞれ特徴があるコースとなっています。登山者に合ったコースを選ぶことができることから、年々登山客が増えています。また国民的な歌ともなった『七甲山』のヒットにより一層七甲山に親近感を抱く人々が増えました。

* 七甲山の由来 *

韓国の人々は古の時代から天と山を崇め奉ってきました。百済はこの山を百済の都に築かれた泗沘城(サビソン)の真北にある鎮山として聖なる山と捉え祭天儀式を行いました。
そのため、山の名称を万物生成の七大原理の七の字と、芽吹くという意味の甲の字を用い、生命の始まりという意味で七甲山と敬い、そう呼んできました。また七人の将帥が現れるという風水地理的に素晴らしい土地・明堂(ミョンダン)がある山とも伝えられています。
忠清南道(チュンチョンナムド)の中央に聳える七甲山の周囲には、東側に兜率城址(トソルソンジ=慈悲城[チャビソン])や道林城址(トリムソンジ)、南側に金剛寺址(クムガンサジ)や天政台(チョンジョンデ)、南西側に定慧寺(チョンヘサ)、西側に長谷寺(チャンゴクサ)など百済の人々の魂が宿る悠久の史跡が数多く点在しています。

七甲山は1973年3月道立公園に指定され、 今では国民的歌謡ともなった『七甲山』の曲とともに、百済の人々の魂が宿る聖なる霊験あらたかな山として知られています。
七甲山は元々、七岳山(チラクサン/チルアクサン)と呼ばれていました。韓国の名山の名称には岳の字が入ることが多く、雪岳山(ソラクサン)、冠岳山(クァナクサン)、月岳山(ウォラクサン)などがその代表です。
歴史的に見ると、朝鮮時代の地理書「東国輿地勝覧」の巻之十八・定山県山川編に「七甲山 左県西十六里有古城其号 慈悲城 又見 青陽県」との記述があり、七甲山は県の西・16里(註:韓国の1里は約400メートル)に位置し、昔の城跡がある場所で、慈悲城(チャビソン)と呼ばれていたことがわかります。
この慈悲城は別名・兜率城(トソルソン)とも呼ばれていました。寺の周辺を城で囲む形となっており、これは全国でも大変珍しい事例です。後世に伝えられている話としては、百済の王子あるいは王族の教育を行っていた寺であったという説や、国家の重大事を執り行ったり外国の使臣をもてなした三国時代の仏教全盛期の遺跡だった説など諸説あります。
ここひとつ注目すべき点は、百済時代に築城した兜率城と、新羅時代の韓国固有の詩歌・郷歌(ヒャンガ)の一つ「兜率歌(トソルガ)」という名称に「兜率」という言葉が共通して入っている点です。兜率は元々、梵語(サンスクリット語)の音訳で、知足、妙足などと意訳され、弥勒菩薩がいる天という意味です。

新羅時代の瑠璃王(ユリワン)5年に詠われたという兜率歌は、三国時代の詩歌の中でも最初の定型詩で、ここに登場する「漆岳(チラク/チルアク)」が今日の七甲山の旧名です。
その後、百済の都が扶余(プヨ)に定められると、 百済時代の山川崇拝思想により、名山大川に祭礼を行う行事が国政の大きな位置を占めるようになりました。このため国を挙げて信仰の対象となった漆岳山の名称を、仏教最高の神聖なる意味を持つ漢字を当てた名称・七甲山に変えたのです。
つまり、「漆」の字を同じ読みの「七」の字、この「七」の文字は天地万物が生成されるという北斗七星にちなんで名付けられた神々「七元星君」あるいは「七星」にも通じる文字で、また「甲」の字は天体の運行の原理となる六十甲子の根本である「甲」の字に由来したと言われています。
また、別の見解では錦江(クムガン)上流の之川(枝川=チチョン)を見下ろす、七人の将帥が輩出されるという甲の字の形をした地形に風水地理的に素晴らしい場所・明堂が七か所あり、七甲山と呼ばれたという説もあります。

大興東軒(대흥동헌)

大興東軒(대흥동헌)

19.8 Km    3293     2020-04-14

忠清南道 礼山郡 大興面 ウィチョウンヒョンジェキル 33
+82-41-339-7332

東軒(トンホン)とは各地方の地方官・守令(スリョン)が政務を執り行っていた建物のことで、守令の生活の拠点となっていた内衙(ネア=西軒[ソホン])と区別し、内衙の東に建っていたことから東軒と呼ばれるようになりました。
つまり東軒は、守令が仕事をする官庁の本庁舎のような建物だったのです。
ここにある大興東軒(テフントンホン)は正面6間(14.4m)、側面2間(4.8m)、軒高3.3mの垂木が一段の構造となっている軒の入母屋造り木造瓦屋根の建物です。
この大興面(テフンミョン)にある東軒は朝鮮時代後期の建築様式の建物で、上梁文に永楽5(1407)年に建てられたとの記録があり、大興郷校(1405年)とともに朝鮮時代の第3代の王・太宗(テジョン・在位:1400~1418年)の時代に建てられたものと思われます。
康熙42(1703)年には重修を行ったという記録があり、朝鮮時代の第19代の王・肅宗(スクチョン・在位:1674~1720年)の治世時に大興(テフン)が郡に昇格した当時、重修されたものと見られます。
現在の東軒の建物は、一時期、日帝強占期(1910~45年)に大興面が礼山郡(イェサングン)に編入された後、大興面事務所に改築されたことがあります。日本の植民地から解放された後も大興面事務所として使われていましたが、大興面事務所が現在の場所に新築されたのを受け1979年に解体・復元を行い、元の東軒の姿を取り戻しました。

礼唐貯水池(礼唐観光地)(예당저수지(예당관광지))

礼唐貯水池(礼唐観光地)(예당저수지(예당관광지))

19.9 Km    30421     2021-01-12

忠清南道 礼山郡 光時面 長田里
+82-41-339-8285

朝鮮時代末期の実学者・李重煥は、『択里志』で内浦の地が忠清道でもっとも住みやすいところだと記しました。内浦の地とは現在の礼山です。礼唐観光地は、現在、国民観光地指定面積である5万6千坪のうち1万3千坪が造成されています。主要施設は食堂、旅館、各種便宜施設などで利用しやすく、現在まで登山路や駐車施設など、6つの施設が完成しており、テーマのある観光地へと変化しています。特に、礼唐貯水池周辺の散策路や八角亭は、釜山の太宗台のような趣が感じられるようにつくられており、家族で散策したり、友達やカップルで訪れるのにもぴったりです。一年を通して釣り客で溢れ、夏には近くの住民も訪れるなど、人々が大勢訪れる観光名所として知られています。

釣りについて
1962年に造成された韓国でもっとも大きな貯水池である礼唐貯水池は、礼山郡と唐津郡の農耕地に水を供給しており、礼山郡と唐津郡の最初の一字を取って礼唐貯水池と名づけられました。中部圏最高の釣り場として知られており、冬場は氷上釣りが楽しめます。フナ、コイが多く、その他ウナギ、カムルチー、コウライギギ、ドジョウなどが棲息しています。