ヤンチャムサデク(ヤン・ドンホ家屋/韓屋152)(양참사댁(양동호 가옥 / 한옥152)) - エリア情報 - 韓国旅行情報

ヤンチャムサデク(ヤン・ドンホ家屋/韓屋152)(양참사댁(양동호 가옥 / 한옥152))

ヤンチャムサデク(ヤン・ドンホ家屋/韓屋152)(양참사댁(양동호 가옥 / 한옥152))

15.2Km    2025-03-05

チョンラナムド ファスングン ユルチギル 14-1
+82-10-4200-6789

全羅南道和順に位置する「ヤンチャムサデック」は、士大夫家の形を整えた300年になる古宅で、国家民俗文化財として指定されました。母屋とサランチェには計5室の客室があります。様々な展示会や音楽会が行われ、伝統文化·芸術プログラムも体験できます。伝統婚礼や野外結婚式、各種宴会や企業ワークショップなどができる空間としても運営されています。村に鶴斎古宅と和順支石墓遺跡地などがあり、車で15分の距離に古刹雲住寺があります。 

カフェ林(카페 림)

カフェ林(카페 림)

15.5Km    2024-11-12

チョンラナム道タミャン郡ポンサン面ソンガンジョンロ192

カフェ林(リム)は、緑の竹林を背景にする潭陽の美しいカフェです。カフェ内外に竹が植えられ、まるで竹林に入っているような感覚が覚えられます。看板メニューはココナッツミルクエスプレッソセーキ。一幅の東洋画を連想させるカフェできれいな写真も撮影できます。

全羅南道 潭陽 昌平[スローシティ](전남 담양 창평 [슬로시티])

16.6Km    2021-04-16

全羅南道 潭陽郡 昌平面 トルダムキル 56-24
+82-2-383-3807

全羅南道潭陽(タミャン)郡昌平(チャンピョン)は農村地帯でトマト、イチゴ、ハウス栽培の野菜など近郊農業が盛んな所で、素晴らしい自然環境がいまもなお残りつつ、田園都市など今後の発展への潜在力を持つ、人情にもあふれ住みやすい美しいところです。
昌平(チャンピョン)という地名は高麗時代初期まで遡ることができ、これまで文武百官を輩出したソンビ(学者)の村として忠・孝・礼・信義を守り続けてきた村としてその名声を博しています。壬辰倭乱(日本で言う文禄・慶長の役)の時の義兵隊長だった霽峰・高敬明(コ・ギョンミョン)先生の次男・鶴峰・高因厚(コ・インフ)先生の11代子孫である大韓帝国末期の義兵隊長・鹿川・高光洵(コ・グァンスン)義兵隊長が生まれた義を重んじる村で、近現代に入って1906年4月1日私立長興学校を創設・開校し、新学問を教育した春崗・高鼎柱(コ・ジョンジュ)先生、国務総理や国会副議長、中央省庁のトップである長官、大法院(最高裁)判事、マスコミ界の重鎮・高在旭(コ・ジェウク)、初の工学博士・李升基(イ・スンギ)博士、初の女性農学博士・金三純(キム・サムスン)博士の故郷でもあります。
朝鮮時代に王への献上品として有名であった昌平米飴や韓菓、千年の神秘をとどめる竹塩、竹塩味噌、伝統トッカルビなどは韓国伝統の食べ物として昌平が誇るものです。

歴史
三韓時代 - 拘溪国
百済時代 - 屈支県
新羅時代 – 757(景德王16)年祈陽県
高麗時代 – 940(太祖23)年昌平県(別名として鳴平[ミョンピョン])。 1144(仁宗21)年、中央指定官として県令を置く。
朝鮮時代 –
1474(成宗5)年-昌平県を撤廃し光州牧に隷属させる形となったものの、金有山(キム・ユサン)が王に訴え 再び1479年昌平県となる。
1758(英祖34)年閔百禄(ミン・ペンノク)が昌平県誌を編纂し、1793年(正祖17)年昌平県令である趙光存(チョ・グァンジョン)が現在の古西面古邑里から昌平面昌平里82番地(昌平面事務所)に移る。
1895(高宗32)年5月26日南原府昌平郡(4等郡守)となる。
1896(高宗33)年8月24日全羅南道昌平郡として9つの面を管轄。

日帝強占期 – 1910年国権侵奪時代 - 昌平郡
1914年2月28日、部令第11号(1913年12月29日公布)により昌平郡が潭陽郡に編入され、昌平面に改称

※ 昌平という地名は孔子の出生地・魯の昌平郷とその地形などが似ていることから命名されたという説があります。
1990年4月1日付で南面外東里が昌平面に編入

潭陽 昌平サムジネ村[スローシティ](담양 창평 삼지내마을[슬로시티)

潭陽 昌平サムジネ村[スローシティ](담양 창평 삼지내마을[슬로시티)

16.9Km    2021-06-25

全羅南道 潭陽郡 昌平面 トルダムキル9-22

昌平スローシティ「サムジネ村」は1510年頃に形成された村で、東の方には月峰山、南側にはクッス峰がそびえています。村の前を流れる川の様子が鳳凰が羽を伸ばして取り囲んでいる形に見えることから三支川(サムジネ)と呼ばれています。
「サムジネ村」は2007年、韓国初のスローシティに指定されており、自然のなかでスローフードやスローアートを体験し、スローな暮らしを追求します。

食べ物:薬草定食、田舎菜園定食、タケノコのナムル、市場クッパ、田舎定食
周辺観光地:竹緑園、メタセコイア並木道、瀟灑園 など

古宅ハノゲソ (고택 한옥에서)

古宅ハノゲソ (고택 한옥에서)

16.9Km    2024-12-23

チョンラナムド タムヤングン トルダムギル 88-9
+82-10-3606-1283

名品古宅の「韓屋で」は、竹谷の潭陽の昌平のスローシティのサムジネ村にあります。広々とした庭の庭園を真ん中に置いて、古宅と別屋、サランチェ、トゥランチェが位置しています。蘇鎖院と松江亭などの文化財と竹緑園、メタシェクワイア道が全て30分以内にあって、多様な観光も可能であります。美しい石垣道と調和し、昔の田舎の趣をそのまま感じながらリラックスできます。 

カフェカノク (카페하녹)

カフェカノク (카페하녹)

17.2Km    2024-02-20

チョンラナム道タミャン郡チャンピョン面チャンピョンヒョンロ714-40

カフェカノクは古い韓屋を改修したカフェで、韓国ならではの伝統的な美しさとゆったりとした雰囲気が体験できる場所です。手作りのきな粉餅とワッフルを一緒に焼いて甘くて香ばしいきな粉餅ワッフルが看板メニュー。セーキとラテを融合した感じのエスプレッソセーキと一緒に食べてもおいしいです。カフェの至る所が伝統的な小物で飾られているので見る楽しさがあります。

栄山江(영산강)

栄山江(영산강)

17.9Km    2020-12-15

全羅南道 潭陽郡 水北面 開東シンギキル

潭陽郡龍面の龍湫峰(560メートル)を水源地とし、潭陽・光州・羅州・霊岩等を過ぎ、栄山江の河口堰を通って、黄海に流れ込む「栄山江(ヨンサンガン)」は、南西に流れながら光州川(11.8キロメートル)・黄龍江(45キロメートル)・砥石川(34.5キロメートル)・古幕院川(21.4キロメートル)・咸平川(15キロメートル)の支流と合流しています。潮汐の影響が羅州の付近まで及んでおり、沿岸農耕地に河川氾濫や農地侵食などの被害を与えたりもしましたが、1981年12月に河口堰が造られ、感潮区間が大幅に減少しました。

和順 西酉里 恐竜足跡化石産地(화순 서유리 공룡발자국화석 산지)

和順 西酉里 恐竜足跡化石産地(화순 서유리 공룡발자국화석 산지)

17.9Km    2022-12-27

チョンラナム道ファスン郡ペガ面ペガロ2080

和順恐竜足跡化石地は1999年5月15日に和順温泉地区の調査中に発見されました。恐竜の足跡の化石は主に、海南、宝城などの海岸地域で発見されており、全羅南道の内陸で発見されたのはこれが初めてでした。和順西酉里恐竜足跡化石地には中生代白亜紀(1億年前)の肉食恐竜(獣脚類)の足跡が多くありますが、最小で5匹以上の活動痕跡が観察されただけではなく、肉食恐竜が一定間隔で歩いた痕跡が単一地域内で集中的に発見されています。また、1匹の歩行列が40メートルで規則的に残されていおり、これは世界最大規模です。ここでは恐竜たちの活動が一番活発だった時期は中生代白亜紀後半期(約1億年前)と推定されています。
この他にも草食恐竜の足跡の痕跡も12個発見されており、珪化木(木の化石)、植物の化石、他の種類の生痕化石が多数確認されています。これは当時の川辺の植生研究における重要な手がかりとして提供され、草食恐竜の食物連鎖の研究にも大きな役割を果たすと期待されています。また、漣痕 (水の流れが作り出した痕跡)、乾裂(高い温度によって亀裂の入った粘土質に砂が積もって形成された痕跡)など堆積構造も確認されました。ここの化石は3つの層から足跡が発見され、乾列も3層に区別されており、その形成時期がかなりの時間が経っていると推測されています。

[事後免税店] ハイマート・ナジュ(羅州)店(하이마트 나주점)

[事後免税店] ハイマート・ナジュ(羅州)店(하이마트 나주점)

18.5Km    2024-04-29

チョンラナム道ナジュ市テホギル11

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月峰書院(월봉서원)

月峰書院(월봉서원)

18.7Km    2021-03-04

光州広域市 光山区 広谷キル 133
+82-62-960-8253

月峰書院(月峯書院/ウォルボンソウォン)は、1578年に金継輝(キム・ゲフィ)を中心とした地方儒林(儒学者の仲間)の公議により、学問と徳行に秀でた朝鮮時代中期の性理学者・奇大升(キ・テスン)を祀るため、光山郡(クァンサングン)飛鴉面(ピアミョン)山月里(サノルリ)に望川祠(マンチョンサ)という祠堂を建て、位牌を祀ったのがはじまりです。
その後、場所を移し、1654(孝宗5)年には、朝鮮王朝第17代の王・孝宗より、月峰(ウォルボン)という名を下賜されました。
1671年には、朝鮮時代後期の文臣で学者でもある宋時烈(ソン・シヨル)らの建議により、近くの徳山祠(トクサンサ)に祀られていた朝鮮時代中期の文臣・朴祥(パク・サン)と朴淳(パク・スン)の位牌を月峰書院へ移し、続いて1673年には朝鮮時代中期の政治家であり礼学の思想家・金長生(キム・チャンセン)と朝鮮時代中期の文臣・金集(キム・ジプ)が新たに祀られました。
儒教の先賢を祀るとともに、地元の人々の教育を担う役割を果たしていた月峰書院でしたが、1868(高宗5)年、興宣大院君(フンソンデウォングン)の書院撤廃令により、廃止されます。
その後、1938年になり、ようやく地元・全羅南道(チョルラナムド)の儒林らの手により五間ほどの大きさの氷月堂(ピンウォルダン)が建立され、1972年には庫直舍(コジクサ)、1978年に外三門(ウェサムムン)と蔵板閣(チャンパンガク)、1980年には祠宇(祠堂)、1981年に内三門(ネサムムン)が相次いで建立され、今の姿となりました。
氷月堂は光州広域市記念物第9号に指定されており、蔵板閣には奇大升の詩文集「高峰集(コボンチプ)」の板木474枚が保管されています。