国立大邱科学館(국립대구과학관) - エリア情報 - 韓国旅行情報

国立大邱科学館(국립대구과학관)

0m    4020     2023-01-05

大邱広域市 達城郡 瑜伽面 テクノ大路6キル 20

国立大邱(テグ)科学館は、遊びを通じて、わかりやすく科学を学び体験できる施設です。
国立大邱科学館に来れば、自ら見て、触って、体験できる様々な科学体験プログラムに参加することができ、同世代の子どもたちと一緒に、限りない想像力を発揮できる科学の世界を体験できます。

161COFFEE STUDIO(161커피스튜디오)

161COFFEE STUDIO(161커피스튜디오)

1.9 Km    0     2024-04-16

テグ広域市タルソン郡ヒョンプン邑ピスルロ581

161COFFEE STUDIO(161コーヒースタジオ)は、テラスと芝生の庭がある大型ベーカリーカフェです。子ども向け施設が整えられており、子ども連れにありがたいカフェとして人気があります。秋になるとピンク色のミューリー(ミューレンベルギア)が生い茂るため、ピンクミューリーカフェとも呼ばれています。様々な飲み物やスイーツなどを提供しており、中でも161SALT COFFEE(塩クリームアインシュペナー)がシグネチャーメニューです。全面窓ガラスに囲まれているので、室内から開放感あふれる田園風景を楽しむことができます。

元祖玄風パクソソンハルメチプ・コムタン(원조현풍박소선할매집곰탕)

元祖玄風パクソソンハルメチプ・コムタン(원조현풍박소선할매집곰탕)

2.0 Km    2324     2024-02-27

大邱広域市 達城郡 玄風面 城下里
+82-53-611-7570

1950年代からテンジャンチゲを販売する田舎の食堂として始まった元祖玄風(ヒョンプン)パク・ソソンハルメジプ・コムタンは、特別な日だけ販売していたコムタンが口コミで広がったことで、看板メニューになりました。パク・ソソンおばあちゃんが「ハルメジプ」という名前で始め、3代にわたって伝統を受け継いでいます。海州(ヘジュ)、羅州(ナジュ)と共に全国3大コムタンに数えられる大邱(テグ)・慶尚北道(キョンサンブクト)コムタンを代表するお店であり、澄んだスープとたっぷりと入ったお肉の多様な部位が調和した味で評判のお店です。

大見寺(대견사)

2.4 Km    35246     2024-02-15

テグ広域市タルソン郡ユガ邑ヒュヤンリムギル232

大見寺(テギョンサ)は、大邱・琵瑟山(テグ・ピスルサン)の頂上、標高1,000メートルの高い場所に位置する千年古刹で、仏舍利が安置されています。屏風のような奇岩に囲まれており、空と接するように建つ寺院で、崖の上に危うく建つ三重石塔と開放感あふれる眺望が絶景です。琵瑟山ツツジ群生地の開花時期の春には、幻想的な景色が見られます。琵瑟山自然休養林から電気自動車に乗って気軽に登ることができます。

玄風郭氏十二旌閭閣(현풍곽씨십이정려각)

3.9 Km    6676     2020-04-14

大邱広域市 達城郡 玄風面 池洞キル 3
+82-53-668-3162

1995年5月12日、大邱広域市文化財資料第29号に指定された玄風郭氏(ヒョンプン・クァクシ)十二旌閭閣(シビジョンニョガク)は、朝鮮時代中期の朝鮮王朝第21代の王・英祖(ヨンジョ=在位:1724~1776年)の治世時に建てられた旌閭閣です。
宣祖31(1598)年から英祖の時代まで、郭氏一門に与えられた12の旌閭(せいりょ)を一ヶ所に集めたもので、建物は前面12間、側面2間の大きさとなっており、屋根は入母屋造りとなっており、屋根の軒を支えるため装飾し作った木組・栱包(コンポ)は柱上部のみある柱心包(チュシムポ)様式となっています。
建物内部には2基の碑石と12の扁額があり、6・25戦争(韓国戦争・1950~1953年・休戦)により建物の一部や碑石1基が完全に破壊されましたが、1963年にすべて重修されました。
建物と扁額は最近のものではありますが、十二旌閭閣は一つの村で郭氏一門に12の旌閭を与えられたという類稀なことから重要な遺産と言えます。
朝鮮時代には王と家臣、父と子、夫と妻との間でしかるべき道理を守った者に対して、一族の家の前に赤い旌門(せいもん)を建て、このことを旌閭(せいりょ)といい、時の国王から称えられました。


[郭氏一門に与えられた主な行跡]
① 壬辰倭乱(日本で言う「文禄・慶長の役」)の際、安陰県監であった郭●(クァク・ジュン=●はそうにょうの上に夋)が黄石山城(ファンソクサンソン)で二人の息子とともに戦死すると、その妻と出家した娘が夫の後を追い自決、これに対し宣祖が旌閭。
② 郭再祐(クァク・ジェウ)の従兄弟・郭再勲(クァク・ジェフン)の息子四兄弟が壬辰倭乱の時、倭敵から病で闘病中の父親を命懸けで助けたことに対し、宣祖が旌閭。
③郭再祺(クァク・ジェギ)の妻・広州李氏は壬辰倭乱の際に倭兵と遭遇、川に身を投げ純潔を保ったことに対して、宣祖が旌閭。
④郭弘垣(クァク・ホンウォン)の妻・密陽朴氏は夫を傷付けようする強盗に身を挺して守り結果亡くなったことに対し顕宗が旌閭。
⑤郭寿亨(クァク・スヒョン)の妻・安東権氏は結婚して1年も経たずに夫が病に伏せ重篤な状態になると、代わりに死ぬことを昼夜を問わず願ったものの、願いかなわず夫を失い、何も食べずに後を追うように亡くなってしまったことに対し顕宗が旌閭。

琵瑟山自然休養林(비슬산자연휴양림)

4.5 Km    152633     2023-01-05

テグ広域市タルソン郡ユガ邑イリョンソンサギル61

「琵瑟山(ピスルサン)自然休養林」は大見峰を中心に照華峰、観機峰まで広がる341ヘクタールの休養林で、自然景観が美しいことで有名です。山の中腹に珍しい形をした岩や絶壁が集まっており、春に琵瑟山の登山道を歩いていると美しく咲き乱れるピンク色のツツジを見ることができます。また、冬には氷の洞窟や氷の塔、ソリゲレンデ、ツララの丘などの見どころがあります。

龍淵寺(大邱)(용연사(대구))

8.4 Km    42254     2024-02-15

テグ広域市タルソン郡オクポ邑ヨンヨンサギル260

龍淵寺(ヨンヨンサ)は、お寺の入り口にある池から龍が昇ったという言い伝えから龍淵寺と名付けられました。仏舍利を保管している場所として広く知られており、金剛戒壇(クムガンゲダン)は仏舍利を祀って儀式が行われる場所であり、仏陀が常に存在するという象徴性を持っています。龍淵寺に行く道は森が茂っており、森林浴が楽しめると同時に、琵瑟山(ピスルサン)の登山コースでもあります。

道東書院[ユネスコ世界遺産(文化遺産)](도동서원 [유네스코 세계문화유산])

8.5 Km    15612     2023-01-05

大邱広域市 達城郡 求智面 求智西路 726

大邱(テグ)広域市達城郡(タルソングン)求智面(クジミョン)道東里(トドンニ)にある道東書院(トドンソウォン)は、朝鮮五賢として文廟に従事した朝鮮時代初期の著名な儒学者・寒暄堂(ハンフォンダン)金宏弼(キム・クェンピル)を祀った書院です。
1586(宣祖元)年、地元の儒林(儒学者)らが風景の素晴らしい琵瑟山(ピスルサン)の東の麓に建立、創建当時は双渓書院(サンゲソウォン)と呼ばれ、それから5年が経った1573年(宣祖6)年には当時の朝鮮王朝第14代の王・宣祖(ソンジョ)から賜額もされるほどでしたが、壬辰倭乱(日本でいう「文禄・慶長の役」)により焼失してしまいました。
その後の1604(宣祖37)年、地元の儒林らが現在の位置に祠宇(祠堂)を重創し、甫老洞書院(ポロドンソウォン)と名付けました。
朝鮮時代の高名な儒学者・李滉(イ・ファン)は金宏弼を「東方道学之宗」とその功績を称え、1607(宣祖40)年には宣祖より「道東書院」と賜額され、村の名称もそれに伴い道東里と呼ばれるようになりました。
道東書院は朝鮮時代末期に行われた興宣大院君(フンソンテウォングン)による書院撤廃の際にも韓国全国にあった書院のうち、撤廃を免れた47の重要な書院の一つとして残り、人々や子孫らの手厚い保護を受け、現在に至っています。

聖母ソルスプ村(성모솔숲마을)

10.2 Km    0     2024-02-08

キョンサンブク道チョンド郡カップク面ソンネギル166

聖母(ソンモ)ソルスプ村は、カトリック大邱大司教区所属の黙想(リトリート)の家です。患者や黙想をしたい人のための施設ですが、すべての人に開かれています。聖堂では毎日11時にミサが行われます。信者でなくても、聖堂の内部を見学したり、松林の道を散歩しながらしばらく休むことができます。村はソルスプ(松林)聖堂、十字架の道、食堂、カフェ、そしてカフェの中にあるイェダムギャラリーで構成されています。

仁興マウル(인흥마을)

仁興マウル(인흥마을)

12.7 Km    25848     2022-09-20

テグ広域市タルソン郡ファウォン邑インフン3ギル16
+82-53-668-3162

南平(ナムピョン)文氏(ムンシ)の中興の祖として知られる三憂堂(サムダン)文益漸(ムン・イクチョム)の子孫が大邱(テグ)の地に移り住んだのはおよそ500年前。そしてここ、現在の大邱広域市達城郡(タルソングン)の仁興(インフン)に定住したのはその18代目にあたる仁山斎(インサンジェ)文敬鎬(ムン・ギョンホ=1812~1874年)の時でした。
文敬鎬は文氏一族だけで村を作る計画を立て、元々、高麗時代の名刹・仁興寺(インフンサ)があった場所に居を構え、今日の仁興マウルの村を新たに作り上げたと言われています。
この先祖代々からの地に最初に建てられた建物は1820年前後に造られた斎室・龍湖斎(ヨンホジェ)で、現在の広居堂(クァンゴダン)のある場所にあたります。
邸宅として使い始めたのは1800年代後半で、当初は草葺屋根の建物でしたが、以降100年の歳月を経て今日の村が形作られました。
現在、およそ70軒あまりの瓦屋根の韓屋が村の中に整然と建ち並ぶこの村は、築200年未満の建物ではありますが、伝統的な慶尚道(キョンサンド)・嶺南(ヨンナム)地方の両班の家屋の形式を踏襲しており、村の作りと周囲の景観と相まって、他では見受けられない特徴ある村と言えるでしょう。